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#201.妻の最期

妻の闘病を綴ったnote

Twitterでご存知の方はいらっしゃるとは思うが

200記事目を書いた次の日

2020年6月23日 火曜日 18時18分

妻は永眠しました。

享年33歳。

その事をずっと書けなかった。

201記事目が書けなかった。

ただ

妻の生きた記録として

証として

その最期の時を

記録しておきたいと思う。

その日は

朝から子供たちを保育園に送った後

障害年金の申請で必要な初診証明を取得するために

妻が発病当初にかかったクリニックへ行った。

時間は午前9時だった。

そのクリニックで感じたことは

「ここが全ての始まりだったんだな・・・」

そんな複雑な思いだった。

その時の心境もTwitterで呟いている。

その時の先生から言われたことは

「その後どうなったの?」

その後の説明をすると先生からは

「ふーん。それじゃ書類は書いておくね」

ふーん・・・か

まぁそんなもんだろうな。

そのクリニックからしても

その先生からしても

妻がどういう経過を辿ろうが関係はない。

とにかく

初診証明を無事に取得することはできた。

妻はその日の午前11時に退院する予定だったので

すぐに病院へ向かった。

その時に車の中で聴いていたのが

なぜか

美空ひばりの「愛燦燦」

そしてなぜか

涙が出ていたんだよな。

まるで

その後の妻の運命を知っていたかのように。

「わずかばかりの運の悪さを恨んだりして」

「人生って不思議なものですね」

その歌詞は鮮明に覚えている。

ちょうど11時に病院へ到着。

到着してからというもの

看護師さんからこういった事を言われたのを覚えている。

「奥様は本当にギリギリの状態だったのを、家族の力で何度も何度も乗り越えています。本当に感動しています。頑張ってください」

妻の病室へ入り

妻の顔を見た時

顔色は昨日よりも良いように感じた。

確かに脈拍は在宅で過ごしていた時よりも高くはあるが

昨日よりは落ち着いているように思えた。

その時に私は

あぁ

やはり妻は家がいいんだな。

そんな風に感じた。

妻が入院した目的であった

MRIも撮ることができたので

当初の目的は果たすことができた。

あとは今日、無事に退院して

また自宅でゆっくり過ごそう。

そんな考えだった。

退院の手続きを行い

午前11時30分頃に介護タクシーへ

主治医も同乗してもらえた。

正午過ぎには自宅へ到着。

同時に訪問看護師さんも自宅へ来てもらっていたので

すぐに妻のバイタルをチェック。

心拍数は100前後と高めではあるが

SpO2は93前後と病院にいる時と変わらず。

13時30分頃には在宅医の先生にも来てもらって

状態を診てもらったが

安定しているとのことだった。

その後に在宅医の先生と

今後の妻について話し合いをした。

私からは

「寝たきりでもいいんです。ただ生きていてくれさえすれば」

「少しでも長く、生きていて欲しい」

そんな事を伝え

在宅医の先生からは

「これからまた頑張っていきましょう」

そんな話をしたことを覚えている。

その後、先生や看護師さんは一旦帰り

私と妻で過ごした。

子供たちが保育園から帰ってくる前に

家の掃除やら洗濯やらをしないといけないので

私は妻の様子を見ながら家事をやっていた。

途中で何度も妻の様子を見に行った。

酸素量は病院にいた時と変わらず3ℓであったが

徐々にSpO2は回復していた。

病院にいた頃は93前後

自宅では98程度まで回復していた。

ただ

心拍数が妙に高いことが気がかりだった。

14時頃までは脈拍は100程度だったが

徐々に脈拍が上がって行った。

途中、妻は突然咳き込み

その後の脈拍は

100→130→160と

どんどん上がっていった。

流石に心配になり

訪問看護師さんに相談した。

ただ言われたことは

「SpO2が下がってなければ様子を見ていてください。夕方にはまた伺いまますので、その時に見てみましょう」

そんな事を言われた。

16時30分に訪問看護師さんが自宅へ来た。

その時の心拍数は170程度

SpO2も一度回復していたのだが

93程度まで下がっていた。

ただ病院でも93程度だったので

訪問看護師さんからは様子を見ると言われた。

私はその後、子供たちを保育園に迎えにいき

17時頃に子供たちと帰ってきた。

いつも通り夕食の準備をして

子供たちにご飯を食べさせた。

ただその時

妻のケアをしていた看護師さんから

「ご主人ちょっと来てください」

そんな事を言われた。

すぐに妻の寝室へ行くと

「奥様の酸素が落ちて来ています」

そんな事を言われた。

確かにSpO2は

元々93前後であったのが

80台まで落ちていた。

また間も無くすると

今まで見たことがないくらいのスピードで

SpO2が低下してきていた。

80→75→70→65・・・

私は「その時が来たのか・・・」と思った。

訪問看護師さんから

「お子さん達を呼びますか?」

そんな事を聞かれたので

「呼びます」

そう答えた。

子供たちを妻の寝室へ呼び

私と子供たちで

「ママー」と声を掛けた。

途中で妻の呼吸は完全に停止した。

ただ声掛けが通じたのか

妻の「生きたい」という最期の意地なのか

自力で一度だけ呼吸した。

ただその一度きりで

再び呼吸は停止した。

SpO2はどんどん低下し

手足にはチアノーゼがでた。

訪問看護師さんは在宅医の先生を呼んでいた。

私は子供たちと一緒に

妻の手を握った。

そして

ママ・・・

ありがとう

そんな言葉をかけていた。

在宅医の先生が来て

妻の状態を見たあと

こう言った。

「奥さんのお父さんが来られたら、確認をさせてもらいますね」

義父にも、義兄にもすぐに連絡した。

「妻の呼吸が停止している。すぐに来てください」

間も無く義父が到着。

在宅医の先生に

妻を診てもらった。

18時18分

ご臨終です

ママ・・・

ありがとう

その言葉と同時に

私は悔しくて

ちくしょう・・・

くそ・・・

そんな言葉も呟いていた。

なんで妻を助けてあげれなかったのか

本当に悔しい

そんな思いだった。

妻は

妻の最期は

自宅で

家族で

私と子供たちで

手を繋ぎながら

看取った。

享年33歳

私は頭が真っ白になり

今後の事を考える余裕はなく

涙に明け暮れた。

ただその後も子供たちに

ご飯を食べさせ

お風呂に入れてやり

寝かしつけをして

そして葬儀屋さんとの打ち合わせもあり

慌ただしく

事が進行していた。

葬儀屋さんから

「スケジュールがタイトなので、明日は仮通夜として、本通夜は明後日にしませんか?」

私としても

少しでも妻と一緒にいたいという気持ちもあり

そのスケジュールでお願いした。

子供たちも眠り

葬儀屋さんも帰り

義父、義兄も帰ったあと

私は

妻の顔

手や腕を触り

何度も涙した。

ドライアイスで冷やさていたが

ただそれでも

妻の体はまだ少し暖かく

妻にキスもしたが

まだ生きているように思えた。

それだけは・・・と

なんとしても避けたかった

妻の死

受け入れ難い現実だった。

妻の闘病生活は

1年10ヶ月

昨年の6月は

家族でディズニーランドへ行った。

今年の2月には

夫婦で沖縄へ旅行も行った。

今までの思い出が

全て蘇って

私の頭の中でフラッシュバックしていた。

幸いにも

妻は苦しまずに

逝くことができたと思う。

ただ

私は勿論ながら

妻も

無念な思いがあると思う。

妻は最期

何を思い

何を考えていたんだろうか。

それを知る余地はない。

もう2度と

逢うことはできないんだから。

妻は本当に素晴らしく

強い女性だった。

そして

私の最愛だった。

妻は

子供たちが心配だろうけど

なんとか自分が頑張って

立派に育てます。

いつか自分も

そっちへ行くと思うから

それまでゆっくりしててね。

本当にありがとう。

そして

さようなら。

これからは

空の上から

私と子供たちを

見守って下さい。















記事を通じて、少しでも誰かのお役に立てればと思っています。