凡庸な君主のマネジメント術は現代に蘇る?:『韓非子―不信と打算の現実主義』を読んだ
冨谷至『韓非子―不信と打算の現実主義』を読んだ。
韓非子は吃音だったと伝わるが、学と文筆で今日まで名を残している。幼いころより口下手だった私はそのことに勇気づけられていた……のだが、30越えた今まで彼の思想をろくに勉強したことないなと思い、ひとまず手軽な新書からはじめることにした。
『韓非子』は法による統治を説いた「法家」の代表格による書と教科書的には説明されることが多いように思う。法による統治は本書でもよく解説されていて、法の機能を整理したうえで『韓非子』の特徴を説明しているが、これが面白い。曰く、法には(1)与えた損害への応報 (2)犯罪の抑止・予防 (3)犯罪者の更生 の三つの目的があるが、『韓非子』が想定する法の機能は(2)のみだという。人は快(利益)を求め、不快(損害)を避ける。罰が重いならどんな軽い罪でも侵さないし、治安も維持される。早い話がこういうことだろう。
しかし、本書で紹介される『韓非子』の思想は法を用いて信賞必罰なんて次元ではない。はっきり言ってヤバい。人を人と思っていないのでは?としか言いようがない。たとえば、人間を信じるなというだけでなく、疑心暗鬼や混乱を生み出すことが統治では大事なのだという。
いかにもありそうな話で、嫌である。ほかにも冷徹な統治術がいろいろと出てくる。そして『韓非子』の冷徹さは徹底している。臣下だけでなく、ある意味君主にもなにも期待していないように思える。
「人を人と思っていない」とか「なにも期待していない」とか書くと穏やかでないが、「属人化を避ける」と言ったらどうだろうか? 賢人政治を理想視する者(つまり儒者に近い立場ということだろうが)との問答が『韓非子』難勢篇に載るが、これはまさに「脱・属人化」という話ではないか。ちなみに尭・舜は神話的な聖人君子、桀・紂は超暴君の代表格です(紂は『封神演義』に出てくる紂王ですね)。王良も人名で優秀な御者ということらしい。
『韓非子』が問題とするのは滅茶苦茶優れた君主でもなければ、滅茶苦茶駄目な君主でもない。両極端な例を排した、「普通の君主」だ。そして仕組みさえ用意できれば、そこそこの能力を持った人を集められれば十分うまくいくのでは?と説いているのである。普通の人でも回していける統治を志向する点で、現代のマネジメント術にも通じるものがあるように思うが、どうだろうか。
『韓非子』は聖人君子も賢臣も待たない。つまり「すぐれた人間性」への期待がない。普通の君主を人の上に立たせ、普通の臣下を動かすにはどうしたらよいのかを考える。だからこそ、古典として今日まで伝わるのかもしれない。
ちなみに上記の引用で出てくる"勢"もマネジメント的な観念だ。"勢"とは、一般的な用法としては「人間や物事を一定の方向に向かわせる力であり、自己の能力、資質ではなく、自己の外側にあり、拠り処となる推進力」であり、『韓非子』における意味合いとしても「為政者が命令を実行させ、政策を進めるうえで推進力となる装置」であると本書では説明されている(p.145)。個人の資質の外側にある、物事を進ませるための推進力――現代のマネジメント風に表現するなら「○○ドリブン」と表現されるものではないか。
本書で語られる『韓非子』の人間観は冷徹すぎる。しかし人間らしさへの期待を排した先にある「法」や「勢」の発想自体にはむしろ時代や地域の価値観に左右されない普遍性があって、現代ではますます盛んに用いられているような気もする。しかも『韓非子』のように露骨な強権さではなく、ナッジやビッグデータによる行動予測のような、人間の介入が一層少ないかたちで。本書ではカントやマキャベリ、ホッブズなどの西洋の思想家とも比較されているが、今らな行動経済学や情報学あたりと比較しても面白いのかもしれない。
ところで本書のあとがきでは、著者の講義で『韓非子』の思想を学んだ学生の感想が紹介されている。その一つに曰く、「現代では韓非子の思想は客観的、冷静すぎて受け入れられないのでは」。しかし20年以上経った今の大学生でもそう思うだろうか?
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