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凡庸な君主のマネジメント術は現代に蘇る?:『韓非子―不信と打算の現実主義』を読んだ

ただここではっきり指摘しておかねばならないこと、それは利を求める人間の本性を韓非は善であるとも、悪であるとも言ってはいないということである。<中略>善だとか悪だとかの価値判断は彼の思考対象ではまったくない。なぜならばそれがあるがままの現実であり、人間の行動を帰納的に分析した結論がそうである以上、ましてや現実を抹消することはできない以上、現実に即して事柄に対応するしかない。

冨谷至『韓非子―不信と打算の現実主義』pp.90-91

冨谷至『韓非子―不信と打算の現実主義』を読んだ。

韓非子は吃音だったと伝わるが、学と文筆で今日まで名を残している。幼いころより口下手だった私はそのことに勇気づけられていた……のだが、30越えた今まで彼の思想をろくに勉強したことないなと思い、ひとまず手軽な新書からはじめることにした。

『韓非子』は法による統治を説いた「法家」の代表格による書と教科書的には説明されることが多いように思う。法による統治は本書でもよく解説されていて、法の機能を整理したうえで『韓非子』の特徴を説明しているが、これが面白い。曰く、法には(1)与えた損害への応報 (2)犯罪の抑止・予防 (3)犯罪者の更生 の三つの目的があるが、『韓非子』が想定する法の機能は(2)のみだという。人は快(利益)を求め、不快(損害)を避ける。罰が重いならどんな軽い罪でも侵さないし、治安も維持される。早い話がこういうことだろう。

しかし、本書で紹介される『韓非子』の思想は法を用いて信賞必罰なんて次元ではない。はっきり言ってヤバい。人を人と思っていないのでは?としか言いようがない。たとえば、人間を信じるなというだけでなく、疑心暗鬼や混乱を生み出すことが統治では大事なのだという。

君主が行うべきことは七術であり、<中略>その第一は、多くの人々の言葉行動についてそれを突きあわせて調べることである。その第二は、罪のある者は必ず罰して威厳を立てることである。第三は、功績のある者は必ず賞を与えて臣下の才能を十分に発揮させることである。第四は、すべて個別的に聴きとって臣下の実績を追及することである。第五は、まぎらわしいことを告げ、偽りの仕事をさせて、ためすことである。第六は、自分で知っているのに知らぬふりで質問することである。第七は、あべこべのことを言い、反対のことを行なってみせることである。

金谷治訳注『韓非子(二)』p.235

龐敬は県の長官であった。市場役人を見まわりに派遣したとき、その取り締まり官をわざとよび戻した。しばらくいっしょに立っていたが、別に命令を出すでもなく、そのまま見まわりに行かせた。市場役人たちは、県の長官と自分たちの監督とか何か話しあったと思って疑心暗鬼になり、それでついに悪事はなくなった。

金谷治訳注『韓非子(二)』p.295

いかにもありそうな話で、嫌である。ほかにも冷徹な統治術がいろいろと出てくる。そして『韓非子』の冷徹さは徹底している。臣下だけでなく、ある意味君主にもなにも期待していないように思える。

「人を人と思っていない」とか「なにも期待していない」とか書くと穏やかでないが、「属人化を避ける」と言ったらどうだろうか? 賢人政治を理想視する者(つまり儒者に近い立場ということだろうが)との問答が『韓非子』難勢篇に載るが、これはまさに「脱・属人化」という話ではないか。ちなみに尭・舜は神話的な聖人君子、桀・紂は超暴君の代表格です(紂は『封神演義』に出てくる紂王ですね)。王良も人名で優秀な御者ということらしい。

尭・舜や桀・紂は〔特別な人物で〕、千代ものあいだに一人出ただけでも、肩をならべ踵をくっつけて引きつづいて出たことになるほど、めずらしい存在である。ところが、世間の為政者はみな〔特別でない〕中程度の人々でつづいている。わたしが勢を取りあげて論じるのは、その中程度の人々が目当てである。中程度というのは、上は尭・舜には及ばないが、下もまた桀・紂ほどではない人々のことで、法を守って権勢の座にいればよく治まるし、法にそむいて権勢の座を去れば乱れるものである。

金谷治訳注『韓非子(四)』p.21

あなたは先に「良い馬をつけた堅固な車でも、奴隷を御者にしたのでは人の笑いもので終わってしまうが、王良を御者にすると一日に千里もの距離を走りとおす」と言われたが、わたしはそうは思わない。<中略>そもそも、良い馬をつけた堅固な車を、五十里ごとに一つずつ配置し、それを中程度のふつうの御者にまかせたなら、できるだけ速く、できるだけ遠くにゆくということも、達成できるわけである。どうして古代の王良のような名御者を待つ必要があろうか。

金谷治訳注『韓非子(四)』p.24

『韓非子』が問題とするのは滅茶苦茶優れた君主でもなければ、滅茶苦茶駄目な君主でもない。両極端な例を排した、「普通の君主」だ。そして仕組みさえ用意できれば、そこそこの能力を持った人を集められれば十分うまくいくのでは?と説いているのである。普通の人でも回していける統治を志向する点で、現代のマネジメント術にも通じるものがあるように思うが、どうだろうか。

『韓非子』は聖人君子も賢臣も待たない。つまり「すぐれた人間性」への期待がない。普通の君主を人の上に立たせ、普通の臣下を動かすにはどうしたらよいのかを考える。だからこそ、古典として今日まで伝わるのかもしれない。

ちなみに上記の引用で出てくる"勢"もマネジメント的な観念だ。"勢"とは、一般的な用法としては「人間や物事を一定の方向に向かわせる力であり、自己の能力、資質ではなく、自己の外側にあり、拠り処となる推進力」であり、『韓非子』における意味合いとしても「為政者が命令を実行させ、政策を進めるうえで推進力となる装置」であると本書では説明されている(p.145)。個人の資質の外側にある、物事を進ませるための推進力――現代のマネジメント風に表現するなら「○○ドリブン」と表現されるものではないか。

本書で語られる『韓非子』の人間観は冷徹すぎる。しかし人間らしさへの期待を排した先にある「法」や「勢」の発想自体にはむしろ時代や地域の価値観に左右されない普遍性があって、現代ではますます盛んに用いられているような気もする。しかも『韓非子』のように露骨な強権さではなく、ナッジやビッグデータによる行動予測のような、人間の介入が一層少ないかたちで。本書ではカントやマキャベリ、ホッブズなどの西洋の思想家とも比較されているが、今らな行動経済学や情報学あたりと比較しても面白いのかもしれない。

ところで本書のあとがきでは、著者の講義で『韓非子』の思想を学んだ学生の感想が紹介されている。その一つに曰く、「現代では韓非子の思想は客観的、冷静すぎて受け入れられないのでは」。しかし20年以上経った今の大学生でもそう思うだろうか?

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