見出し画像

日本の曹操:足利義満

昔のアニメ『一休さん』の中にわがままで子供っぽい将軍さまが印象に残されている方が多いではないでしょうか?

アニメの中にいつも気まぐれかつ短気でわがままで大馬鹿のように描かれているが、本当の歴史はむしろ室町幕府において最も有能な将軍でした。

画像2

足利義満、室町幕府第3代将軍、彼によって南北朝対立を終わらせ金閣寺(鹿苑寺)を建て北山文化を発展しました。

当時の南朝はすでに風前の灯、戦う余裕すらなかった。義満は南朝の後亀山天皇保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に渡すように提示し、後小松天皇が天皇となり、崩御されたら後亀山天皇の息子に即位させ、また崩御されたら再び後小松天皇の孫に即位させるというやり方を提案しました。(両統迭立、兄弟間の即位に似ている)

しかし、結果は言うまでもなく、後小松天皇崩御後約束を守らず自分の子供に即位させました。今日の天皇も北朝の末裔です。とにかく、1392年義満の「嘘つき」によって60年近く分裂された南北朝が統一され、この功績によって彼も日本一番の権力者となりました。

義満は征夷大将軍(令外官の最高職)兼太政大臣(律令官の最高職=丞相)、簡単に言えば三国志の曹操と同じ立場。こんなに権力があるにも関わらず、実は全く嬉しくないしむしろ非常に困っていました。

義満の父親が早く亡くなったため、祖父から残されていた手札が大変まずかった。昔祖父足利尊氏は各地の諸侯を連合して挙兵したので、自分だけ将軍となり他人の不満を招いた。室町幕府が作られてからも依然諸侯割拠している状態でした。義満になると、諸侯間の対立を刺激し、相互牽制分裂させて自分が漁夫の利を得ることによって権力を強化しました。彼の元で室町幕府の最盛期を迎え、そして京都の北山で舎利殿を中心として山荘を建設し「北山殿」と呼ばれました。

一層は公家寝殿造、二層は武家書院造、三層は禅宗佛殿造。金閣寺は伝統三者融合の北山文化の代表作

今になって「金閣」(舎利殿)が有名すぎたため金閣寺と呼ばれるようになったが、正式な名称は「北山殿」です。

また義満は明王朝との外交を回復させ、元王朝によって100年近く中断された中国との貿易を再開することによって、年間4〜5万貫の収入が増えました。

このように内政外交の成功によって義満の野望も大きくなり、まさに曹操と同じ天皇も眼中になく、自ら天皇になるつもりでした。金閣寺を見れば彼の野望がわかるように、屋上には天皇しか使えない鳳凰が装飾され、服にも16枚菊紋を使い僭越の気満々です。ちなみに、中国の皇帝象徴は龍ですが、日本韓国は鳳凰です。

一方、義満は自分の妻を後小松天皇の准母とし、自分の息子を天皇の義嗣(養子)にすることによって天皇退位させ自分の息子に即位するつもりでした。しかし、うまくいきませんでした。

義満は本当に曹操とよく似ている、自分が天皇になるか、それとも一旦息子に天皇にしてから、自分に天皇の座に座るか、うんどうすればいいだろうとずっと悩んでいました。(曹操も結局自分で皇帝にならなかった)

天皇の義嗣となった息子が元服したまもなく、義満は突然病に倒れそのまま死去しました。天皇に毒殺された説もありますが、義満死後、皮肉に後小松天皇から「鹿苑院太上天皇」の尊号を贈られました。

日本歴史において義満は天皇の座に最も近い大臣でしたが、成功できなかった。藤原氏も他の将軍達も権力こそ高いが、自ら天皇になろうとしなかった。何故なら、義満の謀反の心はまさに曹操と同じ悪評が残され、後世の権力者はいくら天皇を傀儡にしてもいいが皇位簒奪だけやってはいけないことを認識したからです。

こうやって義満は『一休さん』の中の傲慢馬鹿な将軍様になったわけです。しかし、改めて見ると、義満は曹操と同じ千古の罵声を浴びたけど、確かに日本歴史に大きな貢献をしたのは違いありません。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?