思えば愛おしい憂鬱
大学時代のほとんどは憂鬱だった。
夢はあっても常に理想と現実の差異に苦しんでいたし、遊んで、バイトして、サークルして……そんな生き方をしている同級生たちがいる中で、下手くそな小説を書いてばかりいて友達もできず、しばらくすると何をするのも億劫になって天井ばかり見つめていた時期もあった。
そんな自分を変えようと明るい自分を偽装してみたり、性根がどうしようもなく真面目なのにちゃらんぽらんの女好きに見せようとしてみたり。自分というものの置き場をころころあの頃は変えていた。
だいたいそんな時期は憂鬱だった。もがけばもがくほど泥に足がとられて身動きできないような感覚が常にまとまりついていた。
言葉で言い表すことのできない不快感が自分を蝕んでいくのがわかった。
しかし、そんな日々も今思い返してみると『愛おしい』と感じる。なんでそう感じるのかはわからない。だけど、確かに今の自分があるのはあの時の憂鬱があったからなのだと思う瞬間がある。
昨日は大学のとき、幽霊部員を貫き通した部活の新歓に参加してきた。本当のところ出るつもりはまったくなかったのだが、俺がお金を払うからとまで同期に言われたので「それなら」と参加してきた。
新歓中はずっと憂鬱だった。二、三度しかあったことのないお年寄りといっていい年齢のOBOGたちが我が物顔で挨拶をしている中、僕はじっと口元をひきつらせながら薄ら笑いを浮かべている。後輩たちは明らかに気を張っていて見ていて痛々しい。看過できる事態ではないが、かといって「伝統」という言葉で形作られた奇妙な世界に1人で立ち向かう勇気は一欠片もないヘタレである。
ああ、早く終わってくれ。同じ言葉を頭の中で繰り返してはため息をつく。ここで奇妙な感覚に出会う「懐かしいなあ」と思うのだ。みんなが上っ面の顔を浮かべている奇妙な場にいるときの、なんともいえない息苦しさ。なんでこんなものが存在しているんだろうと考えるけれど、自分の中で納得いく答えはでない。
終わったあと、みんなで不満を漏らして煙草を吸って、やたらに度数の高い酒を飲んで酔っ払って……ああ、たしかに憂鬱はあったんだと、はたと気づく。
そんな時は大抵幸せな自分にも気づく。実態は存在しないけれど、憂鬱も明朗もたしかに存在しているんだと気づくことができる。
飲み会のあとは彼女のうちに転がり込んだ。たどり着くまでに就職した友人が酔っ払って電話してきて、溜まった愚痴を途切れることなく吐き出していた。今度飲みに行こうと約束した。家に着くと彼女が寝ずに僕の帰りを待っていて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
みんながどうかは知らないけれど、僕はとても忘れやすい。死にたい夜があったこと、憂鬱に押し潰されそうになっていたことをいつの間にか忘れてしまうことがある。反対にきっと明朗なことも忘れてしまっていたりもする。
昨日から、又吉さんの劇場を読みだした。相変わらずぼろぼろで根暗な主人公そうだった。みんな明朗に楽しく生きたいだろうけれど、この世界にはたしかに憂鬱も存在する。だからこそ楽しいことはキラキラしていて眩しい。
実のところこの文章にオチは生きていればいろいろあるよね、という使い古されたもので……オワコンといってもいいのかもしれないのだけれど、そういうこともたまには考えてみてもいいんじゃないかと思ったのだ。
今僕は喫茶店で彼女のことを待っている。きっと彼女は僕にあったら笑うと思う、たぶんそのときの僕はだらしない顔をしているんだとも思う。今日大学を卒業してから初めて会った友人は、少々愚痴をこぼしつつも映画の話などをして以前と変わらない笑顔を浮かべていた。仕事が楽しいとも言っていた。
僕は昨日から太陰太極図を思い浮かべながら、白円と黒円の意味を思い返している。
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