ナイル川船長、そしてオマー・シャリフに会う(2/2)
単身で外国に住んでいると、とても孤独が身に染みる時期がある。それはやはり家族が集まって祝う時期で、国によってはクリスマス、イースターそして元旦。
エジプトに住んでいる場合は、断然ラマダーン(断食月)が、独り者の異邦人にとって"冷え"を感じる時期だった。なぜなら家族が集まり和気あいあいするシーズンだから。
ご存知のとおり、ラマダーンの期間中は日中は断食、水も飲めない。(唾については、唾ですら飲み込むのはオッケーという人と、唾もダメだという人に分かれた)
日が沈むと食事(イフタール)なのだが、普通は家族そろってこのイフタールをとる。
アパートでひとり暮らしをしていた時なんぞ、壁の向こうのお隣りさんや、上階に住むエジプト人一家の、楽しく食事をしているざわめきや団欒の笑い声が響いてきた。
それを耳にしながら、こっちはひとりで勉強したり読書したり、ゲーム機で遊んだり…
何かの外国人コミュニティーのイベントで出会った外国人に、本当に寂しいなあ、日本は遠いから簡単に一時帰国もできないし嫌になっちゃう、とこぼすと
「君は今孤独だろうが、故郷が遠かろうが、望めば帰れる国がある。だから本当の孤独者とはいえない」。
ん? 普通のヨーロッパ人と思って、ホームシックの愚痴をこぼしたのだが、ん?
出身地を聞けば、なんとその男性は元軍人のボスニア人だった。
....
エジプトは結構、ボスニア難民(元軍人が多かったような...)を受け入れており、彼らはカイロの国営ホテルなどに住んでいた。
そうか、帰れる国がないというのは本当にキツイな、それに比べて確かに自分は帰ろうと思えばいつでも帰れる。あまり嘆いてばかりじゃあいけないな、と反省した。
ところで、ラマダーンは一年の数え方が異なるイスラム暦の9月、と決まっている。よって年々十日ほど早まる。
また、新月の観測が確認されないと、正式なラマダーンスタート日が確定されないため、毎年新月観測されたかどうか、正式な発表を待たないといけない。
たいてい開始日数日前には、「○日から」と発表があり、すると一斉に多くの知り合いエジプト人がわざわざ電話でそれを私に教えてくれた。
八百屋で働く顔なじみの少年や、通りすがりの赤の他人まで「○日からラマダーンだぞ!」とわざわざ声をかけてくれた。笑 気合いが入っているからネ..
いざラマダーンが始まると、テレビから一斉に食べ物のコマーシャルが消えた。お菓子のCMもマクドナルドのCMもぱたっと全く流れない。
その代わり、「ラマダーンを頑張りましょう!」という歌が流れたり毎度毎度、イスラム教の開祖のモハンマドの伝記映画(←長い...)が放送された。
街の様子もがらりと変わった。日中は多くの商店が閉まる(特に飲食店や食品販売店)。
また普段は必ずどっかしらでオッサンたちが、大声で怒鳴り合いの喧嘩をし、それを取り囲む野次も騒々しいものだが (原因は、たいてい車の接触事故トラブル)、
ラマダーン中はそれもほとんどない。空腹で喧嘩どころじゃないから。
ただし、車のクラクションはいつも以上に喧しい。お腹が空いていらいらカリカリするのだろう、短気になる。でもお腹ペコペコだから声を出したくない。代わりにクラクションを鳴らしまくり、ストレス解消。
日が暮れる時間になると、帰路に急ぐ車がビュンビュン通り過ぎていく。
一刻も早く帰宅して、決められた時間にイフタールの食事をとろうと、運転手の気が急くからだ。むろん、この時間帯にタクシーを捕まえようにも、まず無理。タクシー運転手も乗客を拾うよりご飯優先!
日没になると、事前に街中に用意されているテーブルに貧しい人々が席につく。いわゆる炊きだしだ。食事を提供するのは、大金持ちたちで、
前にも書いたが、トップベリーダンサーのフィーフィーなどは自腹を切り毎年毎年、普段肉を食べられない貧しい人々に、ラマダーンにはお肉料理を振る舞ってあげていた。
ラマダーン中のルールについては、エジプト人によって言うことが全然違った。
いい加減な人は、自分の都合の良いように解釈していたからだと思う。
例えば、某ほら吹きエジ男(英語ガイド)は、ラマダーン中に断食をやり遂げたら、この1年の間に自分が犯した罪が水に流される、と信じていた。
某ちゃらいエジ男(スペイン語ガイド)は、ラマダーン中でも日が沈んだら女性誰とでも寝ても構わないし喫煙も問題ない、と言い放っていた。
色気プンプンエジ子(フランス語ガイド)は、ラマダーン中はメイクをしてはいけないが、
「眉毛を描いてはいけない、とコーランには書かれていない」と、眉毛だけはアイブロウペンシルでがっちり太く描いていた。(確かに眉毛描き有無までコーランに書かれていまい...)
結局、傍で見ていると日頃から敬虔なモスリムはラマダーンもしっかりやり遂げ、もともと食わせ者のモスリムは、いろいろ言い訳してラマダーンもいい加減に乗り越えていた、という印象だ。
観光ガイド業で、頻繁にナイルクルーズ船に乗船していた年、私も断食にチャレンジしてみた。開始二日で後悔した。
断食...多分、日没までずっと寝ていて、日がまた昇るまでずっと食べていられるなら、多分そんなに苦しくない。
だけど、観光ガイドの仕事をしていると、断食は拷問でしかなかった。
早朝に起床し、南エジプトの暑い気候下、遺跡を歩きまくりずっと喋っているのだ。これで水も飲んではならない、というのは非情極まりない。
でも「やる!」と方々で調子に乗って宣言した手前、やらざるを得なく、失敗だったなぁ~。
それに断食を頑張っている面々の前で飲み食いするのも、なかなか罪悪感めいたものを覚えた。
なんだか申し訳ないと言おうか...やはり同僚たちと一緒に断食をする方が、連帯感を覚え絆は深くなった。でもそれでもツライ..
しかし断食に自分も参加したおかげで、親しくなったナイルクルーズ船の船長に
「君も断食やっているなら、僕の身内の家のイフタールにおいでよ!」と誘って貰えた。
このラマダーン期間中、彼には親族や友人の家にずいぶん連れて行ってもらった。
時には食事のあと、長々とお茶を飲みおしゃべりをし、時にはその後にテニスをしにテニスクラブに向かったり(※深夜です)、
賑やかな繁華街に繰り出したり(※深夜です)、と"充実した"ラマダーンを過ごせた。
あ、日中は日中で、授業に出たり仕事に行ったりしていた。私も若かった、体力があった。笑
さて、船長のお兄さん宅で、イフタールをご馳走になり家族写真を見せてもらっていた時のこと。
"家族"の写真アルバムに世界的映画監督のユーセフ・シャヒーンの写真を見つけ、度肝を抜いた。
「この写真はね、伯父さんの○○の映画の撮影現場で、主人公の子供(だったかな?)を僕が演じたんだ。ほとんどの映画に身内はみんな出演しているよ。(イギリス留学悩んでいる)姪っ子の二人も出演しているよ」。
そして山のような、シャヒーン監督自身の写真、映画撮影現場写真も見せて貰った。
(アメリカに移住した)シャヒーン監督の身内…
ああ、だから船長もこの大物監督という身内のつてで、一家で渡米して向こうの国籍を取っているのも納得したし、そして
シャヒーン監督も船長たちもみんな、もともとギリシャ系レバノン人の血筋だ、という。なるほど、それで西洋人のような風貌なのかと納得。
ただしシャヒーン監督はクリスチャンだけど、船長たちはモスリム。
監督の姉か妹がエジプト人のモスリム男性と結婚し、船長たちはその子供達なんだろう。
(モスリムの男性とクリスチャンの女性が結婚したら、生まれる子供はモスリムでなければならない)
「ユーセフ・シャヒーン氏に会いたい!!!!」
私が図々しいお願いをした。
しかし現在、監督はパリに住んでいるそうでそれは無理だ、と言われた。
(ちなみに聞けばやはり監督はフランス映画に一番影響を受けており、だから監督の作品はフランス映画のような雰囲気のものばかりなのだそうだ)
伯父のシャヒーン監督は無理だけど、その代わりに…と、船長はウ~ンと考え込む仕草をした。
「オマー・シャリフ(本当の発音はオマル・シェリフ)ならもしかして会わせてあげられるかも」と..
えっ?
ええっ!?
オマー・シャリフとも顔見知りなのか!??
のけ反った。
オマー・シャリフといえば真っ先に思い浮かぶのが「アラビアのローレンス」「ドクトルジバコ」そして「ファニーガール」かな?。
アラブ人(イスラム教徒)だと分かる名前にも関わらず、インターナショナルでトップに上りつめた、おそらく最初のモスリムの俳優じゃないかと思う。
バーブラストライザンドやソフィアローレンともいう各国の大物女優たちとも共演をし、アラビア語の他に英語、ギリシャ語、イタリア語、スペイン語、フランス語もスクリーン上で操っていた。
そうそう、オマー・シャリフはアレキサンドリア生まれのエジプト人だが、やはりルーツはレバノン。
ルックスの良いエジプト人は男女ともに、たいていレバノン/シリアの家系...ところが、いざレバノンに行くと、あまり男前は見かけなかったという摩訶不思議...
ところで、90年代のエジプトのテレビでは、朝から晩まで、若きし頃の(ハリウッドに渡る前の)オマー・シャリフの白黒ドラマ/映画ばかり流れていた。
あとオマー・シャリフが出ているテレビコマーシャルも頻繁に流れていた。
洗面台、シャワー/バスタブ、便器などを販売する「クレオパトラ」という会社 (日本でいうところの”TOTO”)のテレビコマーシャルだったが、
オマー・シャリフが便器 (!)の宣伝!
「彼がこんなコマーシャルに出るなんて!」とエジプト人もちょっと衝撃を受けていたっけ…
(※ 百回以上見たコマーシャルなのですが、ネットでそのコマーシャルの動画/画像を探しましたが、見つからず、はて...)
とにかく、船長は本当にオマー・シャリフはカイロに連絡を取ろうとしてくれた。が、シャリフ氏はこの時、カイロを不在にしていた。残念だった。
ラマダーンが明けた。
船長も有給休暇が終わり、すぐに南エジプトの船に戻った。
「Loloさん、グループとまたすぐに船に来ますよね?待っています」と言われ、カイロでお別れ。
その二、三週間後に船に行くと...
はっ!?
船長は船のデッキで、イタリア語ガイドのエジ子さんからイタリア語マンツーマンレッスンを受けていた。彼女はイタリア人とエジプト人のハーフだそうで、とてもスタイルも良くて美人だった。
案の定一目瞭然、船長はデレデレだった。
ついこのあいだまで、「オハヨウゴザイマス」と復唱していたのに、えっ? 「ボンジョールノ」を唱えている...
さらにびっくりしたのが、そのイタリア語ガイドのエジ子さん、私よりも若くて、大学を卒業したばかりのたったの22歳! 船長より25歳も年下!
....
パクパク...言葉が出ず、口がパックマンみたいに、パクパクしちゃいました。
いや、てっきりラマダーン中は慎んでいただけで、ラマダーンが終わったら、何か私に言ってくる(告白)かなと内心ドキドキしていたのが、馬鹿みたいだ。
この一連の出来事を、同居人のエジ子さん二人に話すと
「アメリカに長く住んでアメリカ国籍を持っていようが、見た目がエジプト人っぽくなかろうが、エジ男はエジ男なんだ」。(※訳: 惚れっぽいということ)
...
イタリアエジプトハーフ子さんは、確かにとても綺麗な若い女性で船長は、出会ってわずか一ヶ月で求婚。
ところが、彼女の父親に
「年齢が離れ過ぎている」と反対された。
エジプトでは、全てにおいて父親の言うことは絶対だった。よってサヨナラ...いいやAddio...。
船長も失恋しただけでなく、クルーズ船解雇という追い討ちまでかけられた。
「仕事中にナンパしている」 と船員らに総スカンをくらい、船長はまさかの解雇になったのだ。よって、またアメリカに戻ることになった。
船長がエジプトを去る数日前の夜。
私に連絡がきた。で、会話していたら話の流れで、その夜最後に会おうとなった。
カイロシェラトンのベリーダンスショーを一緒に見た。ステージはエジプトを代表するトップベリーダンサーのフィーフィーだった。(すでに中年だったが、それでもぶち抜けてのNo.1の人気だった)
船長いわく
「今度はいつエジプトに戻って来れるか分からないので、もしかして見納めになるかもしれない(もう若くはない)フィーフィーのベリーダンスを見ておきたい」。
広いフロアの中央にはステージがあり、それを取り囲むようにテーブルと椅子が並べられていたが、満席だった。客の大半はやはり湾岸人(富豪のクウェートやサウジアラビア人)だった。
船長も私も食事をしながらベリーダンスを見学したが、船長はまだ失恋と解雇の件でショックを受けており、ずっと不平不満をグチグチ言っていた。
ウ~ン、こんなオッサンに一瞬とはいえ、自分はドキドキしたのか、と嫌になる。
その時だった。
ベリーダンスショーの中休み時間になり、周囲に明かりがついた。
ぬ!?
ずっと向こうのテーブルに、一際強いオーラを放っている紳士がいた。その紳士を大勢の人間が取り囲み、ウェイターたちもその紳士ばかり気にしている。
誰だろう? 政治家か偉い将校かな?
私はじろじろ眺めた。
おや?
「ちょ、ちょっと!あのひとはもしかしてオマー・シャリフじゃない!?」
船長にそれを言うと、彼は目をこすり、私が示唆した方に目線をやった。
「えっ? 本当だ。ちょうどよかった。アメリカに戻る前に会えた。ちょっと挨拶しておこう。一緒に行こう」
と拍子抜けするほどサクッと立ち上がった。
当時、オマー・シャリフはすでに長年住んだハリウッドを引き揚げ、エジプトに戻っていた。
噂では、彼はカイロシェラトンホテルの部屋を住まいとしているという。この時は接待だが付き合いで、大勢の人々とそのホテルのステージショーに姿を見せていた。
船長が近づくと、オマー・シャリフは席を立って握手をかわしハグをしあった。チュッチュの挨拶も男同士やっていたかな?
船長が私をうまいこと言って紹介してくれた。
オマー・シャリフは手を差し出し、私にも握手をしてくれ、そして「エジプトは好きか。エジプトはいいだろう」というとようなことを笑顔で言った。(興奮し過ぎて実は正確にあまり覚えていない)
で、私がアラビア語で「エジプトもあなたも最高です!!」と答えると、今度は私の頬にチュッをしてくれた。感激のあまり、ぶっ倒れそうになった。
一般のエジプト人のオッサンにチュッなどされるものなら、キィーッと怒って張り倒すところだが、スターとなると、同じオッサンでも突然のチュッが、ロマンチックな思い出になる。笑
(普段の生活に、カメラなんぞ持ち歩いておらず、そしてスマホ時代じゃなかったことが大変恨めしい。もしスマホがあれば、絶対ツーショット写真、お願いしていました...)
ところで、オマー・シャリフと楽しそうに雑談する船長は、私の知る、当初のキラキラ輝いた素敵な船長だった。お別れの直前に、彼の本来の姿を再度見られてよかった。
船長がエジプトを去って以降のことは、何も知らない。
今頃、どこかのクルーズ船で船長をやり、船上パーティーでビートルズやプレスリーを唄ってお客さんたちを幸せにさせているのに違いない-
これで締めたかったが、コロナのせいでこのオチにできないのがなんとザンネン!
追記
ユーセフ・シャヒーンは2008年に逝去、オマー・シャリフは2015年に他逝去。合掌
↓ナイル川船の船上パーティーで踊りまくったマカレナダンスは、今でも体が覚えています😂 マカレナダンスをしながら、猫じゃらしを揺らすと、飼い猫二匹、大興奮!
↓オマー・シャリフ生誕85周年記念の時のGoogle検索画面
独り言:どこにしまったかな...毎年探す冬の手袋...
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