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雪と砂漠、チェコ語とロシア語、青と赤(中)〜LOLOのチェコ編⑤

 防寒になる分厚いオーバコートを買わなくちゃなあと思いつつも、日本から持ってきた薄地の青いコートと赤い色の毛糸マフラーで最低限の寒さをしのいでいたら、3月に入りました。

 さすがに髪の毛や耳たぶ、指先までもが凍える真冬の厳しさはもう過ぎたようで、街中を歩いていると、歩きタバコの通行人がよく目につくようになりました。
 少しだけ寒さが和らいだことにより、人々にタバコを吸いながら闊歩する余裕が生まれたのでしょう。


チェコにもオスマントルコ帝国の影響が

 プラハにはパリのように片手にタバコを持ち、それを吸いながら歩く人々が割と多く、タバコ代もそんなに高くはありませんでした。

  ちなみに、どこでもタバコとコーヒーを一緒に嗜むことはよくありますが、チェコのカフェ文化はレベルが高く、どのカフェに入っても内装がオシャレで意外で驚きました。

 居心地が良い空間が工夫され、必ずコート掛けがあり、いつだってどのBGMも耳心地が良かった。そして淹れるコーヒーも美味しい。パリやロンドンのカフェと変わりません。

 それはそうと、
「なんでチェコのコーヒー文化ないしはカフェ(コーヒーハウス)の文化が浸透しているのだろう」
私はふと疑問を抱きました。

 考えてたどり着く答えは、やはりこれです。
「どうせオスマン帝国の影響に違いない」

 どうせ、というのはフランスやイタリアにはオスマン帝国からコーヒー文化が入っているのを、既に知っていたからです。だからきっとチェコもそうであるのに違いないと思いました。

 一応、紙の資料で色々調べると、ビンゴでした。

【チェコに最初にオープンしたカフェは地方都市ブルノの町で、1702年のことでした。アフマッドというトルコ人が開業しました。
 そして首都プラハに最初のカフェ(コーヒーハウス)がオープンしたのは1711年で、アラブ人(※おそらくダマスカス出身者)によってでした】

 
 なおコーヒー文化に限らず、チェコにもオスマン・トルコの影響が入っているのが随所見られました。建築様式や音楽然り、食べ物然り。それにです。言葉もそうです。

 チェコ語はスラブ民族の言語で、トルコ語はテュルク系なのでそれぞれの言語の系統は全然異なります。 それにも関わらず、共通する単語がわりと見られました。

「なぜ類似語や共通単語があるのか」

 不思議でも何でもありません。

 チェコはハップスブルグ家のオーストリアに支配されていた時代があった上、オーストリア=ハンガリー帝国はオスマン帝国と強い貿易関係を持っていたからです。

 だからオスマントルコ語から借用したチェコ語の単語がずいぶん生まれたのは、それが理由なのに違いなく、日本語にポルトガル語がルーツの単語が色々入っているのと、ある意味同じかもしれません。

撮影コーディネートの仕事

 「ランチにKFCに行って来たの?ヒュ~、リッチ!」

 プラハの撮影コーディネート会社に通いだした頃、会社のチェコ人若者にそう冷やかされ、きょとん。目をパチパチさせ耳を疑いました。
「昼休みにファストフード店でハンバーガーを食事するのが、"裕福”なの?」
 
 確かにチェコ人の若い社員たちは、お昼ゴハンに人参を生のまま丸一本かじり、2リットルのジュースをガブガブ飲むなどで空腹を満たしていました。

「そんな食事だと、ロケの時に力が沸かないんじゃないかな?」
 と私はよく心配しました。やはり撮影コーディネート会社ですから、仕事はロケハンやロケが入ると物凄く忙しく、あちこち移動ばかりしました。

 「チェコの日本テレビ番組撮影の仕事編」でもっと書きますが、当時はたった5分のミニ番組のためにも、ロケする場所を貸切にするなども普通のことでした。

 そして必ず一足先に日本からディレクターがチェコまで飛んできて、ロケハン(下見)を行っていました。

 後日、本番のロケでは日本から改めて、再び同じディレクターがADらと共に飛んで来て、毎回カメラマンは西ヨーロッパから合流しました。

 ルーマニアからバスと運転手を呼ぶこともありましたが、繰り返すとわずが数分の小さな番組のためにも、こんなに各国からスタッフが集結し、仰々しい撮影形態だったのです。

 余談ですが、カメラマンは西ヨーロッパから来ていたと書きましたが、中でもイギリスのカメラマンは素晴らしかった。上手なのです。

 聞けば、ロンドンのタクシードライバーの試験は難関だといいますが、プロの撮影カメラマンになるためにも、イギリスではなかなか難しいそうです。だから基礎のレベルから全然違いました。


 それはともかくロケの仕事がない時は、私は基本的には会社と自宅の往復の日々で、帰りに水泳プールに寄ったり、中心部のバーツラフ広場辺りもふらふらしました。

 何しろイスラム教国家のカイロでは、あまり外国人の若い女性がぷらぷら一人で街中をうろつきにくい空気だったので(うろついていましたが)、プラハでのこの開放感は格別でした。

 この広場周辺にはプレイステーションやダンキンドーナッツの店、ボディショップ、ベネトン、バータ(チェコ系カナダ人の靴屋)などの店も軒を並べておりました。どれもカイロには一切なかった店です。

 その中で私は「プレイステーション」が何なのか全く知りませんでした。聞いたこともなかったので、チェコ人の若者同僚に
「日本のゲーム」
と教えられた時には、どえらくびっくりしました。何しろ「ファミコン」で止まっていたので!

 チェコに移住する前に、もう少し長く日本に逗まっていればプレステぐらい知ったと思いますが、私がアフリカ(エジプト)にいた1994年に日本のソニーが発売したゲームだったんですね…。発展途上国に住み続ける弊害は、先進国の流行や発展にどんどん取り残されることなのかもしれません。


 会社帰りにはよくスーパーにも立ち寄り、そこで一番驚いたのは前の記事で書きましたが、毛皮が山ほど売られていたことです。もう一つ驚いたのは人々が犬を連れてスーパーの中で買い物していることでした。

 ロンドンとパリよりも、プラハの方が犬OKの場所は多かったと思います。
チェコでは犬が入れない個所は教会の中ぐらいだったのではないか、というほど至るところに犬連れがおり、愛犬家のレベルも高かったことよ。

 チェコの犬の繁殖家や保護家たちの話もまたいずれとして、どんなに大きな西側のスーパーでも冷凍のいかやエビを除き、魚が全然売られておりませんでした。

 野菜果物も全然しなびれています。太陽の下でしっかり育ったそれらが八百屋や路上店で並んでいたエジプトとはまるで違います。これが同じトマトなのか、同じオレンジなのかと。みずみずしさも全く別物です。

 またチェコではバナナが異様に高く、
「バナナはここぞというお祝いやお見舞いの時に贈るもの」
とチェコ人同僚に教えられ、日本でいうところの高級メロンなんだな、と思いました。

 しかしどこのスーパーも総合的には充実しており、フランス、オーストリア、イギリス、ドイツのメーカーの食品、菓子、酒、石鹸やシャンプーなど大量に多くの種類が売られておりました。

 その後、スロバキアやブルガリア、ルーマニアのスーパーに行くと、棚ががらんとして寂しいことといったら!

 くどいですが、チェコとハンガリーそしてポーランドもだったかな?はまさに西側との窓口にされ、民主化発展象徴の国と祭り上げられ、物でも音楽でも文化でも何もかも大量に入ってきておりました。

 東側の社会主義だった国々を一気に周遊すると、チェコなどは物の豊かさと西側企業の進出の数において、西側から見捨てられた貧困国々とはそれらが明らかに全然違っていました。 

チェコ語学校へいざ


 プラハに住み始めて割とすぐに会社が手続きと支払いをしてくれ、チェコ語夜間学校に通い出しました。

 初日に教室に入りまずびっくりしたのは、学校の建物自体は古くて暗い雰囲気だったのに、全て両利き用の机が用意されていることでした。

 どういうことかといえば、日本では机は右利き用ばかりで、左利きの人間にも使いやすいようにと考えられている机など皆無で、引き出しは右側についており(動かせるスライド式の引き出しはまだ一般的ではありませんでした)、この画像のような机ばかりでした。

 しかし私は左利き寄りの両利きで、文字を書くのは左手でした。
 だから日本の机はいつも使いにくくてたまらなかった。アメリカの大学でもそれは一緒でした。

 調べると、チェコ(当時はチェコスロバキア)の学校では生徒が左利きから右利きに強制的に矯正する教育を廃止したのは、英米と日本よりずっと早かったといいます。

 それ以降はチェコスロバキアでは、左利きの人々への配慮を持つ社会に変わったとのことで、実際にチェコ共和国では他にも駅の自動改札然り、ドアや窓の開閉、台所の使い勝手が左利きにもストレスがかからないように考え設計されていました。

 おかげで私は「左利きで不便だな」
ということは、この国では「一度も」感じることがなかったです。

 一般的に左利きの方が右利きよりも生活においてストレスが溜まり、事故に遭いやすいので寿命が短いといいますが、チェコならそれは関係ないかもしれません。
 大げさでなく、本当にチェコでは一度も「左利きで苦労したこと」は何も起きませんでした。

↑欲しいです

Worst Car Ever-トラビ(東独トラバント車)

 旧ドイツ民主共和国 (GDR) 出身の家族が、愛車のトラバント 601 に乗ってイタリアまでドライブ旅行に出かけます。
 しかし道中、車のヘッド ガスケットが破裂し、父親が緊急電話で整備士にトラバント 601 に乗っていることを伝えます。すると、整備士はクスクス笑いながら「粘着テープを持ってきてくださいね」と答えました。

1991 年のドイツのコメディ映画「Go Trabi Go」より。英語字幕付:https://www.youtube.com/watch?v=hbAoQqwOCU0&rco=1

 チェコ語初級クラスのクラスメートはアメリカ人夫婦一組と私以外全員、ヨーロッパ人でした。

 その多くが金融関係の仕事でプラハに駐在しており、カイロのアラビア語学校の外国人生徒たちは考古学者や宗教家も多かったので、国ごとの語学学校によって、生徒の「特徴」も変わるものだなと、しみじみ思いました。

 
 私の左の席には自動車メーカーのドイツ人氏が、そして右の席には銀行員のイギリス人氏が座りました。

 この二人、初対面から気が合わず、その理由はドイツ人氏が
「自動車会社に勤めている」
と自己紹介した時に、イギリス人氏が
「トラビの自動車メーカーか?」
とみんなの前でからかい、どっと笑い声が巻き起きたのがいけなかった。

 トラビとはチェコでもそう呼ばれていた旧東ドイツ製トラバント車の愛称で、東ドイツにまつわる数え切れないジョークの的で、馬鹿にされていました。

 それも無理のないことで、なぜならそもそもトラビは家庭用工具で修理できてしまう車で、「芝刈り機と同じエンジン」を搭載しており、燃料計、エアコン、方向指示器やブレーキランプがなく、最高速度は時速62マイルしか出せませんでした。

 それに車の内装は非常に貧相で、奇妙なデザインのシフトレバー、樹脂プラスチックの外装…。トドメは大きな煙を吐き出し、エンジンがうるさくガタガタ鳴りながら走行することです。

 ちなみにカイロでは日本車とドイツ車以外には、ロシアの「ラダ」の車がたくさん走っていました。
 エジプトがソ連と仲が良い時代があったことと、ラダ車の価格の安さと構造が単純なため、壊れてもすぐ直せるという整備性が理由だったと思います。

 トラビことトラバント車は非常にクオリティが悪い車だったにも関わらず、東ドイツではその購入には16年も待たされていました。テレビも冷蔵庫、洗濯機も然りで、これが社会主義国です。

 1989年にベルリンの壁が崩壊した時、この変なトラビ車の大集団が東ドイツから一斉に西ドイツに押し寄せました。大行列を成しました。

 その映像が「ニュースステーション」の番組で中継され、ぎょっとした日本人は多く、この時に確か日本ではトラバントの車の知名度が上がっていました。

何だろう。不思議と今見るとオシャレな車に見えますね…

 走行中のトラバントはいかんせんガソリンと2ストロークオイルを50対1の割合で混ぜた強い排気ガスの匂いを発しており、エンジンはブーーーンという大騒音を立てて、そして速度はのろく、道中でしょっちゅう故障し止まってしまいました。

 よって地球環境にも交通においても迷惑この上のない車でした。
 そのため、チェコでも「トラバント車規制」が厳しくされており、もし道路を走っているトラビことトラバント車が見つかると、警察パトカー(チェコ製のシュコダ車)が駆けつけ、厳しく取り締まっていました。その場面は私も何度も目撃しています。

 こんな車、こんな状況でしたから、トラビには「Worst Car Ever(史上最悪の車)」だの「屋根付きスパークプラグ」や「段ボールレーサー」という悪口ばかりのあだ名がつけられており、チェコでは私が最も耳にしたのは「段ボール車」でした。

 それほど、ちょんけちょんに馬鹿にされていたトラバント車が2024年の今、カルト的な車としてマニアたちの間で大人気だというのに私は驚きを隠せませんが、

 チェコ語教室で、イギリス氏人はジョークのつもりでトラバントの名前を口にし、冗談でからかいました。でも、どうも性格が生真面目らしいドイツ人氏はむっとし、そこから二人はあまり口を利かなくなりました。

 そのドイツ氏に私はちょっと恐る恐る「ジンギスカン」のことを尋ねてみました。

「ジンギスカンのグループはご存知ですよね?昔、ジンギスカンは日本でも物凄く流行って、私が小学生の時には運動会でジンギスカンを踊らさせました」
「えっ!?」

 ドイツ氏はトラバントの時とは違い、目を輝かせてジンギスカンの話には食いついてきました。まさか遠い日本でも西独の人気グループのジンギスカンがスターだったというの知らなかったから、すっかり興奮したようでした。

 でも同じクラスのアメリカ人夫婦はジンギスカンのグループを「聞いたこともない」とのことで、あれはヨーロッパ以外では日本でしか流行らなかったのかもしれません。

西ドイツのスターといえば、私にとってはジンギスカンとネーナです

アラビア語の最初の授業は「コカコーラ」、チェコ語学校では「ロボット」 

 チェコ語授業の先生は中年女性。名前はペトラでした。
 これはチェコではよくある名前ですが、「ペトラ」と言われる度に、私はヨルダンのペトラ遺跡をいちいち思い出しました。

 ペトラ先生は教壇に立ち、簡単に自己紹介をしました。でもチェコ語で話したので、さっぱり分かりません。

 思えばカイロのアメ大のアラビア語口語コース「初級」クラスでも、先生はアラビア語しか喋りませんでしたから、あの時も大変でした。

 だってそもそも、ラテン語を知っている西洋人の生徒に合わせた教え方でしたし、それは日本語をベースにした日本人の言語思考から全くかけ離れているものだったからです。よって本当にアラビア語授業についていくのに、ああどれだけ苦戦したことか…。

 それはそうと、チェコ語授業の初回ですが
「何のチェコ語単語を真っ先に教えられるのだろう?」

 アメリカン大学カイロのアラビア語口語初級コースでは、「コカコーラ」でした。「コカコーラ」をアラビア文字でどう書くのか、そして発音はどうなのか。

よくこの写真が広告に使われたものですね…

 「ペン」でも「本」でもない。「こんにちは」でも「ありがとう」「アップル」でもない。「コカコーラ」の単語を真っ先に教えられたのです。さすが「アメリカン」大学だけありますが、
「チェコ語授業ではどうなのかな?」

 するとです。

 ペトラ先生は自己紹介が終わった後、早速授業に入り、教室の前方ホワイトボードに文字を書き始めました。R,O,B,O,T。

ROBOT

「ああ…」

 ぴんときました。
 なぜならチェコを代表する作家のカレルチャペックの小説に「ロボット」が登場し、このチェコ語小説が外国でも売れたことにより、「ロボット」の言葉も世界中に広まったことはガイドブックにも書いてあったからです。

 ペトラ先生はイギリス人氏に質問しました。
「“ロボット” の単語は英語ではなんといいますか?」
 
「えっ、英語でもロボットはロボットです」

 先生は今度はイタリア人を指しました。
 「じゃあ、イタリア語では?」
「ロボットです」

「デンマーク語では?」
「同じく、ロボットはロボットですね」
「ブルガリア語は?」
「ロボット」

 最後にペトラ先生は無言で教室を見渡しました。私と目が合いました。
 多分ですが
「日本語でもロボットはロボットなのかしら?」
と考えているように見えました。

 当てられた私は素直に
「ロボットです」
と答えました。
 
 案の定、先生は嬉しそうな顔を見せ、勝ち誇った顔で指を鳴らしました。

「皆さん聞きましたか。なんと遠い日本でもロボットはロボットと呼ぶそうです。凄いことです。

 そのロボットの語源は実はチェコのSF小説です。しかし今皆さんが答えたように、もともとチェコ人作家が作り上げた単語”ロボット”は世界共通単語になりました。
 ”ロボット”以外にそんな単語は他の言語には果たしてあるでしょうか?」

「…あるよ」
 思わず反射的に私がぼそっと言ってしまいました。何か聞かれたら瞬時に返事をしてしまう…。ああエジプトで観光ガイドをしていた時の習性のせいです。

 お客さんに「トイレはどこですか?」「1エジプトポンドは日本円でいくらでしたっけ?」「ツタンカーメンとラムセス2世はどっちが古い時代の人物?」「スークは何時まで賑わっていましたっけ?」

 等などいつも多くの質問をされ、バンバンさばいて…もとい、はきはきテキパキ答えていた時の習性のせいです。疑問形で何か言われたらぱっと答えねばならないという…。

 しまったと、ハッとしましたが、もう遅い。ペトラ先生に私の呟きは聞こえてしまっていました。

 案の定、先生は眉をひそめ、ちょっと不服そうに
「ロボットのチェコ語単語以外に、世界中に普及している外国語の単語があるのですか?じゃあその単語は何ですか?言ってください」

「…」
ええい、ままよ。
 私は”エアー”マイクを持つふりをしました。

「”KARAOKE”です」

 一瞬で教室の空気が変わりました。
「おお!」
私の両隣のドイツ人氏とイギリス人氏も大笑いし、拍手が起こりました。肝心なペトラ先生も頷き、なんと全員と一緒になって拍手をしました。

 翌年、ペトラ先生はまたチェコ語初級クラスを受け持ちました。そこに新しく日本人が入りました。

 クラシック音楽を学びに来た女性で、声楽の個人授業を受けるためにはハンガリーのブダペストまで「越境」通学していましたが、その彼女に学校の休憩室で会った時、私に最初の授業のことを語ってくれました。

「最初の授業では、ペトラ先生はチェコ語の”ロボット”は国際語になっているという話をして、そしてエアーカラオケを歌う仕草で、”カラオケ”もそうだと話しました」

 驚きです。おお、ペトラ先生、すぐに「カラオケ」をチェコ語授業に取り入れましたか!笑いました。

               チェコ語初級クラス編、 つづきます

ヘッダー画像。日本の某5分番組に出てくれた「無名の」ロシア人バレエダンサーペアです。



         

       

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