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仕事辞めてロシア留学したら戦争始まって計画パーになった話~モスクワ留学・コロナ発症編~

・2022年1月29日土曜日 モスクワ留学第一日目

 電話をかけてから4時間後、ガイドが笑いながら空港にやってきた。留学はまだ始まったばかりであった。
 結局ホームステイ先のホストファミリーの家に到着したのは夜7時を回った頃となったのだが、ウラジミール君は甲斐甲斐しくもホームステイ先まで一緒についてきてくれて、私の荷物を運んでくれたのであった。

 ステイ先に到着し私を迎えてくれたのは、2人の女性のホストファミリーであった。1人はスラっとして背の高い40代後半くらいのNさんと、もう1人は恰幅の良い70歳前後くらいのおばあちゃん(バーブシュカ)のEさんであった。2人はモスクワ郊外の新興住宅街の高層マンションに居を構えていた。ほぼ間違いなく高所得者層であるだろう。

 そんな彼女たちは温かく私を迎え入れてくれた。大幅に遅刻したことの非礼を詫びたが、ケタケタと笑いながら受け流し、歓待の席に私を案内してくれたのであった。ロシア料理は日本で何度か食べたことはあったが、本場の味は初めてだった。長らく私を待ってくれていた二人に、私は日本からの手土産として日本酒をふるまった。私はこの度のステイ受け入れと出会いに感謝の意を示し、ささやかながら日ロ友好を祈念して盃を交わしたのであった。
 ほどほどに酔いも回ってくると、慣れないロシア語と言えども舌が回るもので、私は気が付けば彼女たちと一緒になってロシアの歌を歌っていたのだった。
 しかし楽しいひと時はあっという間に過ぎるもので、その日はほどほどの時間でお開きとなり、私は旅の疲れを癒すべく床に就いたのであった。

ホストファミリーのNさんと日本酒を注ぐ私
ホストファミリーのEさん(左)とNさん(右)
私がお邪魔したステイ先の遠景


・2022年1月30日日曜日 モスクワ留学第二日目

 留学二日目のこの日はNさんに連れられてモスクワ中心部の観光と、留学先の学校までの道案内を受けたのであった。移動には地下鉄を用いた。モスクワメトロだ。ソ連時代には、西側からの核攻撃に備えて地下深くに駅が作られたとの噂を耳にしたこともある。そんな物騒なモスクワメトロも仕組みや車両は日本の地下鉄と何ら遜色なく、快適かつ綺麗であった。

モスクワメトロと新型車両
モスクワメトロのエスカレーターは長く、先が見えない

 メトロでは驚いた点が2点あった。一つは新しい車両にはUSB の充電ポートが備え付けられていたことと、もう一つは全区間が一律の料金設定であったことだ。スマホの充電が車内で出来るのは本当にありがたかった。冬場に厳しい寒さを迎えるモスクワでは、その寒さによってスマホのバッテリー性能が低下し、あっという間に充電が切れるのである。
 また一駅の移動だろうが、路線の端から端までの移動であろうが、料金が一律というのは旧社会主義国家らしい料金システムであり、ユーザーとして大変にありがたいものであった。

 Nさんに連れられて、私はやがてモスクワ市中心に到着した。目を輝かしてあたりを見渡す私に、Nさんはゆっくりとしたロシア語で解説してくれた。中でも旧KGB(現FSB)本部庁舎、グム百貨店、赤の広場等、名の知れたモスクワの名所は興味深いものだった。

その時の感動たるや!

 歴史学科出身の身として、あるいはオタクとして、旧KGB 庁舎には興奮しないではいられなかった。またグム百貨店で食べたアイスクリームの美味しさには唸らされた。ソ連時代から現在に至るまでロシアのアイスは大変に美味しいと聞いていたが、実際に味わえたのは感涙ものであった。
 そして赤の広場には外国人観光客らしき人も多く見られた。まだこの時は「開かれたロシア」であったのだった・・・。

 市内観光もほどほどに私はステイ先に帰り、明日の初授業に備えてゆっくりと休息をとる。明日からは本格的な授業が始まるのだ・・・。

赤の広場は観光客が多く歩いていた
泣く子も黙る旧KGB(現FSB)本部庁舎

 残念ながらロシア政府の情報統制により、ウクライナ情勢は全く分からない。人々は日常を過ごしている。又、中国人が多い。ロシア人も中国との交易を多くしている様子だ。街中にも中国語が多くみられる。モスクワが向くのは中国と欧州であって、日本ではない。その方が良いのかもしれないが・・・。但しお菓子やアイスは本当に美味だ。アメリカ人の舌よりはよほど信頼が出来る。とは言え、日本に持ち込むのは相当な労力が必要だろう。銀行、JETRO、広告代理店の足並みが揃わなければ大規模な取引は不可能だ。そしてロシア政府自体の信頼も低い。人々の情の厚さや優しさは良いのだが、反比例するように政府がひどい。
 さておき「Мы - армия народа」をホストファミリーと少し歌った。「近頃の若い子は知らないのよ」とネリーさんはぼやく。ロシアでも若者は軍歌を知らない。ソヴィエトへの誇りはどうやら中年層以上にはいまだに根付いている様子だ。大変興味深い。

私の日記より引用「1月30日のロシア」


・2022年1月31日月曜日 モスクワ留学第三日目

 この日は初授業であった。教室にはアメリカ人、ドイツ人、トルコ人、フランス人、そしてシリア人等が既に出席していた。年齢も様々で、20~40代までの人達と机を並べることになったのであった。出会った中でも特に興味深かったのは、シリア人のM氏とアメリカ人のA氏であった。M氏はシリアで経済ジャーナリストをしており、職務上の理由でロシア語を学ぶために留学したとのことだった。またアメリカ人のA氏は40歳で、2年間アメリカでホームレスをしたのちに、縁があってモスクワに留学に来たとのことだった。シリア人と会話をしたのは生まれて初めてであったので新鮮であったし、ホームレスを経てモスクワに留学をするという経験には、さすがの私も驚いたものであった。

 しかし何より驚いたのは、参加者の経歴よりも、マスクを着けていない人間の多さであった。特にひどいのはアメリカ人で、A氏を除いて、ほぼ全員がマスクを着けていなかった。そればかりか「俺は反ワクチンなのさ!」と自己紹介をされた時は、内心かなり冷や冷やしながら話を聞いたものであった。
 授業後ウラジミール君と再び落ち合い、彼の案内の下に改めてモスクワ市内を散策した。赤の広場やモスクワメトロの駅構内などはソビエトの残り香が強く、非常に充実した観光が出来たのであった。

クラスメート、アメリカ人が最も多い
地下鉄の駅にはソビエト時代の名残が多く残っている
レーニン像は依然として至る所に建っている


・2022年2月01日火曜日 モスクワ留学第四日目

 この日は授業の後にスーパーマーケットやグム百貨店に向かい日用品などを購入した。またグムにてアイスクリームを買い食いする。グム内で購入できるアイス「エスキモー」は100ルーブル(当時150円前後)と大変安価で、そして大変美味である。これはバニラバーをチョコレートでコーティングしたもので、ソビエト時代から親しまれるポピュラーなアイスだ。観光スポットとしても人気であり、様々な人種を見る事が出来た。

グム百貨店(写真奥建物)と広場
グム百貨店、アーケードや壁の作りが美しい
グム百貨店内の食堂「スタローバヤ」
グム百貨店で売られる「エスキモー」アイス
「エスキモー」はバニラバーがチョコでコーティングされている

・2022年2月02日水曜日 モスクワ留学第五日目

 この日はいつものように私は午前10時に登校し、私の定位置になりつつあった席に着いた。しかし不思議なことに、いつもなら一番に来ているはずの先生の姿がない。はて、とふと考える。瞬間、「あっ」と声が出た。この時私は、その日の授業が午後1時から始まることを思い出したのであった。授業開始までゆうに3時間はある。人の少ない学校にて一人苦笑しながら、私は授業開始まで学校周辺を散策することにしたのであった。

 知らない国、知らない町を歩くというのは、目に映る全てが新鮮に感じられるものだ。ぶらぶらとなんの気なしに歩くだけでも、ビルの模様や佇まいが日本のそれとは異なることを楽しむことが出来るのであった。
 曇天の寒空の下、当て所もなくモスクワ市内を歩き、時間も昼に差し掛かった頃にはちょうど腹も空きはじめたのだった。私は学校までの帰路の途中に、ふと見つけたラーメン屋に入ることにした。日本語で書かれた暖簾や、日本のアニメのイラスト、寿司のネタ等の漢字が店内に飾られている。商品もロシア語と日本語で書かれており、中々面白い作りの店舗であった。何を頼むかとメニューを一通り眺め、私は味噌ラーメンを注文することにした。

Давайте МИСО-РАМЕН,пожалуйста (ダヴァイチェ、ミソラーメン、パジャールスタ)」

 日本語の混じったロシア語で注文をするのは不思議な感覚で、通じた事に少し面白さを感じたものだった。しばらくして出てきたのは、想像していた以上によくできた味噌ラーメンであった。
「いただきます」と手を合わせ、割り箸を使い、遠慮なく麺を啜る。野菜炒めの乗った味噌ラーメンは、日本で食べるラーメンと比較しても遜色なく、むしろ美味しい部類であった。遠い異国の地で、ここまで美味しい味噌ラーメンにありつけるとは思ってもおらず、味噌の味になつかしさを感じつつ、体を温めたのであった。

 昼食を終え、私は改めて授業に参加した。やはりアメリカ人はマスクをしていない。ウイルスが怖くないのか、或いはもうすでにかかった後なのだろうか。私はそんなマスクのない彼らにも慣れてきつつあったのだった。

クルスカヤ駅周辺にて、建物の絵が独特
モスクワ川にて、日本のそれとは異なる外観の建物が新鮮だ
モスクワで食べた味噌ラーメンは日本と同じ味だった


・2022年2月03日木曜日 モスクワ留学第六日目

 この日は朝7時半にウラジミール君と合流し、スプートニクライトを注射する予定であった。しかしウラジミール君も外国人向けにワクチンが打てるところはあまり知らない様子で、病院に向かうまでかなり歩き、難儀したのだった。1時間近く歩いた頃には、身体がカッカと熱くなってきた。歩きすぎだろうか、と最初は思ったが、心なしか喉にも違和感が出始める。「まさか・・・」と思いつつ、病院に到着した私は、ワクチンを打つために何枚かの書類を記入したのだが、その間にも寒気は増しはじめ、いやな予感は確信へと変わりつつあった。やがてワクチン接種前の検温を行う段階となった。医者が私の腕に検温器をかざす。すると体温計のモニターが赤く光り、電子音を発したのだった。示された数字は微熱を示している。何度か測り直すものの、いずれの数値も微熱を示していた。

 「発熱している者にワクチンは打てない」と至極当然の対応をされる。「早く帰れ」と医者に言われ、私とウラジミール君の二人は病院を後にしたのであった。PCR検査はしてはくれなかった。ウラジミール君に感染させるかもしれないという不安と、長い時間をかけて案内をしてもらった手前、申し訳なさでいっぱいであった。だがどうしようも出来ない。急な発熱と不甲斐なさを詫び、彼にも身体に気を付けるように伝え、早々と解散をしたのであった。私はホストファミリーには発熱があることと、決して部屋には入らないようにとメッセージを伝え、帰路に就いたのであった。
 
 ステイ先につく頃には、40度近くあるのでないだろうかというほどの熱さと、ますます激しくなるのどの痛みに襲われ、私は這う這うの体で部屋に入ったのであった。「これは間違いなくコロナだな」とぼんやりとした頭で考える。激しいのどの痛みで、つばを飲み込むのさえも苦痛となり始めた。私は保険会社に発熱と病院の手配を依頼した。すぐに折り返しの電話がかかり、モスクワの外国人に対応した病院が手配された事を伝えられたのであった。

 この日の夜、同じ教室のドイツ人の女の子が近日中に帰国するために、送別会が開かれる予定であった。鼻筋が通り、金髪の綺麗な子だった。私の持っているカシオの電子辞書をみて「Wow,High tech!」と驚いたのを覚えている。
 私は発熱と送別会欠席の連絡をし、意識を失ったかのように眠りについたのであった。



つづく・・・。

~モスクワ留学・コロナ発症編~ 完

あとがき

 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 ロシア人の市井の人の優しさや甲斐甲斐しさと言うのは本当に驚くものがあります。これはウラジミール君に限った話ではなく、私が出会ったロシア人はその多くが、見ず知らずのアジア人の為に汗を流し、頭を悩まし、身体を張ってくれたのでした。そんな優しき人達が、一方で侵略、略奪、虐殺を隣国で行っているかと思うと、言葉に表すことが出来ない感情が渦巻くのです・・・。ロシアは今や世界の敵であることに間違いはないのですが、市井の彼らの情の厚さや、日本にも劣らない交通インフラには驚きべきものがあります。そしてロシアのアイスクリームの美味しさは、きっと誰もが驚くことでしょう。あの味は、平和な世の中になれば是非とももう一度味わいたいものです・・・。

 アメリカでのコロナ罹患者や死者の多さについては報道でご存じの方も多いでしょう。海外留学をし、複数言語を操る様なインテリ層ですら、マスクもワクチンもしないのですから、これには本当に驚きました。きっと私のコロナもアメリカ人からうつされたのではないかな、と思っています。アメリカ人はなんでも日本人に分けてくれますが、どうせならお金だけにしてほしいものです。結局私はデルタ株に罹患していたわけですが、その時の苦労話と、そして快復後の旅行記についてはまた次回以降にお話しようと思います。

 日本でもまだまだ新規感染者は毎日出ております。皆さんもどうかくれぐれも感染予防対策にお気を付けくださいませ。とは言え日本で罹患するのは、まだまだ世界でも幸せな部類でしょう。少なくともモスクワで罹るよりかはマシだと思います。

皆様からのコメントをお待ちしております。
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それではまた続きのお話にて・・・。

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