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インターネットで「釈明」はできない。

インターネットでは様々な情報に溢れていますが、その情報が信頼に足るか否かは絶対的に知ることはできないでしょう。

しかし、中には「明らか誤った偏見や噂」が拡散され、それに苦しんでいる人もいます。ですが、それに対処するということは困難であると感じる出来事がありました。

この記事は、以下の続きのようなものですが、サクッと概略を書いておきます。一応飛ばしてもある程度分かるように書いたつもりです。

私の大好きなラーメン二郎について、「あらぬ誤解」を吹聴するとある動画がYouTubeにアップロードされました。

その結果、コメント欄は大荒れ・・・。
以下、実際のコメント例です。

飯食うのに一々しゃしゃるなバカ店主とバカ客が
これだから二郎は行きたくないお店ナンバーワン!
そこまで意識して飯食いたないわ。インスパイア系でいいわ
ジロリアンただの迷惑客で草
ただのバカの店主と客。たかがラーメン、総理にでもなったつもり。
まともな食い物じゃない。豚の餌と言われるだけはある。
バカどもがこんなクソラーメン食って喜ぶw

一方で、ごく一部ですが、二郎が好きな方が誤解を解こうとしている様子も見受けられました。

しかし、それに対する返信もだいぶ辛辣を極めていました。

うわwこう言うシュバってくる輩が雰囲気悪くしてるんだよなぁ
二郎を擁護するはずなのに、自分自身がステレオタイプなネットジロリアンに堕ちるのは悲しい
でも、火の無い所に煙は立たない、とも言いますよ?
信者きっしょw

こう言われちゃ、いくら誤解を解こうとしても、その声は届かないでしょう。

「いいね」「グッドボタン」。こういう「賛同」を示し、その数が可視化されるのが昨今のSNSの特徴でしょう。

「いいね」の数が多いコメントやツイートはより多くの人に拡散され、加速度的に「いいね」が増えていきます。とくにYouTubeの場合、同じような立場からのコメントがより上位に来る傾向にあります。「エコーチェンバー現象」と言われるものでしょう。

世の中には様々な人がおり、様々な意見を持った人と触れ合うことが出来る。世界に開かれたグローバルでオープンな場で、「公開討論」のような形で意見を交換し合うことができるコミュニティがある。一方で、同じ意見を持った人達だけがそこに居ることを許される閉鎖的なコミュニティもあり、そのような場所で彼らと違う声を発すると、その声はかき消され、彼らと同じ声を発すると、増幅・強化されて返ってきて、「自分の声」がどこまでも響き続ける。それが「エコーチェンバー」である。

この「エコーチェンバー」の内部では、「エコーチェンバー」内の「公式見解」には疑問が一切投げかけられず、増幅・強化されて反響し続ける一方で、それと異なったり対立したりする見解は検閲・禁止されるか、そこまでならないとしても目立たない形でしか提示されず、すぐにかき消されてしまう。そうするうち、たとえエコーチェンバーの外から見た場合にどんなにおかしいことでも、それが正しいことだとみんなが信じてしまう。
出典: エコーチェンバー現象 - Wikipedia

「いいね」が多いコメントが自分の意見と一致していれば、たとえそれが誤解だったとしても「ああ、私はマジョリティなんだな」と思うことが出来るわけです。「私は世論だ」と錯覚できます。一旦自分がマジョリティ側だと認識すれば、その人は自分の考えを強化します。「私の考えは世間的に正しかった」と思うわけですね。

マイノリティ側の人間(今回でいうと、二郎が好きな人)は、その「強化された誤解」と闘わなければならないわけです。つまり、マジョリティの人々はは既に「二郎とはルールを強要してくる厄介客ばっかりの店だ」という「虚構の世論」を同一化・内面化しており、「自分の先入観」を確固たるものとしています。マイノリティ側の人間は、この社会的な先入観と対峙しなければならないのです。

既にマジョリティ側の人間からすれば、マジョリティを捨ててマイノリティ側へ歩み寄るメリットは薄いです。マイノリティ側に歩み寄ってしまうと、元々帰属していたマジョリティ側からの圧力に苦しむ羽目になりますから。「囚人のジレンマ」のようなものです。結果的に、誰も聞く耳を持ちません。

従って、誤解や偏見をインターネット上で解決する、換言すれば「釈明する」というのは非常に困難なことでしょう。

よく「ネットはオープンな議論をする場」と主張する人もいますが、彼らの議論は「自分の意見は正当である」という前提から始まっているように思われます。裏を返せば、「自分の意見に正当性がないといえる相当確実な証拠」がない限り、自分の意見や思い込みが強化されてしまいます。そうした証拠や根拠をインターネット上のコミュニケーションで示したり説明して理解を促すのは、リアルでの対面によるコミュニケーションする場合に比べて困難でしょう。

議論が「自分の意見は正当である」ではなく「自分の意見は正しいかもしれないし、そうじゃないかもしれない」という前提であれば、追加的な情報を自らの手で調べ、自らの経験に照らし合わせ、情報が信頼に足るか判断すること、つまり「自ら批判的に考えること」ができるはずです。

「鵜呑みにする」ということは、やはり「自分の意見は正当である」という前提から議論が始まっている証左であり、「自ら批判的に考えること」が出来ていない証左でもあると思います。

「オープンである」という体裁は、マジョリティにとっては重要なことです。つまり、形式的に「オープン」であるからこそ、例えそれが「偏見」であったとしても、あたかも「議論の結果としての、多数の人間の総意だ」と正統性を付与することができるのです。

しかし、その実は「排他的」であり、「クローズド」です。例えば、自分の気に入らない意見は「晒し」たり、「ブロック」したり、「誹謗中傷」したり、「私刑」に処したり、「ネット自警団」が正義を振りかざしたり。

結局のところ、インターネット上で行われる「議論」と称されるものは、対話的なコミュニケーションではなく、単なる一方通行の応酬であるような気がします。換言すれば、「一方的な主張の押し付け合い」が「双方向」に見えるだけで、他人の意見を吟味したり取り入れたりすることは排除されているように思われます。このような「リアルでの対話」では当たり前にできることでも、ネット上でも実践している方はそう多くはないと思います。

このように、一見オープンなインターネットも実質的には閉鎖的である、というのが私の経験的な所感です。

私の嫌いな言葉の一つが「火の無い所に煙は立たぬ」です。

この「気に入らない人に全ての原因を押し付ける」感が大っ嫌いです。

「悪いのは放火魔じゃない。放火されるような家を建てたお前だ」
「悪いのは自然発火ではない。燃える素材を使って家を建てたお前だ。」

って、とんだ論理ですよ。

私の実体験としては、結構強い語調が多いのもSNSの特徴な気がします。

絶対○○しない。
○○すべき。

実際に、このようなコメントがあったように。

絶対二郎に行かない。
二郎は会員制にすべき。

所詮ネット上の情報なんて正しいか誤っているかあやふやなものばかりです。にもかかわらず、曖昧な情報からこんなに強い言葉が出てきます。

そんな心無い言葉が誰かを傷付けていることを知らずに。

結局、SNSとは自分の意見を強化するためのツールだと思います。

超メタな話ですが、私がちまちま書き上げたこの記事だってそうでしょう。

ただ、それを「知っている」か「知らない」かで、インターネットとの付き合い方は随分違うような気がします。
それを「自覚している」ことで、自分と異なる立場の意見も「なるほどな、確かにそういう可能性はあるな」と「考える」余裕が生まれると思います。

私は、インターネットと付き合うときに常に「かもしれない運転」を心がけています。

この作品が好きな人もいるかもしれないし、嫌いな人もいるかもしれない。
このネット記事は正しいかもしれないし、誤りが含まれているかもしれない。
この人の主張に賛成の人もいるかもしれないし、反対の立場の人もいるかもしれない。
このレビューは中立的かもしれないし、先入観が強すぎるかもしれない。

それくらいの感覚で付き合えば、もう少しインターネットの世界は優しくなるんじゃないかな、と思ったり思わなかったり。


Fin.


冒頭で紹介した動画を批判する記事を本記事含めて3つ書きましたが、これで最後にしようと思います。

理由としては、noteに自分の気持ちを書き起こしたことで、私もだいぶ気持ちの整理がつきました。
※「気持ちの整理」として書いたので、あえて取り留めのないような文章構成にしています。

多分居ないと思いますが、もしここまで全ての記事を読んでいただいていた方がいらっしゃいましたら、お付き合いいただき本当にありがとうございました。

貴方の二郎ライフに幸あれ。

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