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地方生まれ地方育ちの若者が東京に一人暮らししてそこそこ辛かった話

『東京生まれ東京育ちの若者が田舎に転勤になって死ぬほど辛い話』という記事が話題になっているようです。

この記事のことはTwitterの記事を見て知ったのですが、それに対するtwitterの方々の感想はけっこう辛辣だなぁ、と思いました。

きっとご本人はインターネット上でしか(それも匿名でしか)吐き出すことができず、縋るような気持ちで大なり小なり共感してくれる人がいればと思って書いたのかもしれませんが、インターネット上でもポーンと突き放されてしまったように見えます。多少文章の内容に気になる点があったとしても、ひとまず「辛かったね」と言ってくれる人は絶滅危惧種です。そう思うと、インターネット社会のほうが田舎より住みづらい気がします。

そしてこの匿名の書き込みの気持ち、ちょっと分からないでもないなぁとは思います。私の境遇は真逆ですが。

ということで、パロディ記事として、私の大学生活でそこそこ辛かった「東京暮らし」について書いてみようと思います。

ちなみにタイトルで「田舎出身」ではなく「地方出身」と書いたのは、「本当の田舎」というのがよく分からないので、ひとまずやんわりと「地方」としておけば良いかなと思ったためです。もっとも、「本当の田舎か否か」という田舎の程度なんて些末な問題だと思います。その人が「田舎」と感じたら、そこは「田舎」なのだと思います。小泉構文みたいですが。


憧れの東京

東京といえば、「スクランブル交差点」です。あるいは「東京タワー」です。従前の私の中の東京像って大体こんな感じでした。

大学進学を機に東京に住むことになり、あの「テレビでしか観たことがない」風景を生で見れることに感激したのは今でも記憶に新しいです。それこそ初めて東京タワーに登ったときの感動はなかなかのもので、そこから見える夜景は陳腐な表現ですが「宝石」という言葉以上に的確な表現はないでしょう。「ついに東京に来たか」と足にも力が入ったものです。

東京に来て色んなことを学びました。スタバ、鳥貴族、サークル、ガラス張りの超高層ビル、山手線、秋葉原。諸外国からの留学生や某会社の社長のご子息なんかとも知り合いました。いやはや、世界は広いな、と。


喧騒とさみしさと

最初の2年間ぐらいは特に楽しかった記憶が多かったのですが、大学3年生以降くらいからでしょうか、楽しさよりも「さみしさ」が勝るようになりました。

自分で言うのもなんですが、私はどちらかというと真面目なほうだと思います。決して自慢というわけでなく、「そういうものだ」と思ってめいいっぱい履修を入れて、授業もほとんど出席しました。授業を切るという手段は知っていましたが、小心者ゆえにその勇気は出ませんでした。

そのためプライベートな時間は限りなく少なくなり、同じ学部の友達と遊びに行ったりご飯を食べに行ったりする時間が随分少なくなりました。辛うじて、週一回行っていたサークルだけは死守しましたが、それ以外で交友関係を広める機会は限定的になったような気がします。

東京に来て覚えた「スタバでPC」も、最初はワクワクとドキドキが同居していましたが、大学生活の後半では最早その初々しさはありません。アパートで一人で課題をやっていると不安と寂しさに押しつぶされそうになって、一人でいるのを紛らわせるために喫茶店で課題をやるようになりました。そこに楽しみは微塵もなく、一種のドーピングのためにオフィス感覚で喫茶店に行っている感覚へと変化しました。

東京は夜も賑やかです。それが地方との大きな違いです。それは素敵なことでもあり、同時に自分がアパートの静寂の中で一人でいることを否応なしに教えてくれるのです。それが地方育ちの自分には段々と耐えられないものとなりました。


「消費している」という感覚

もう一つ、東京に来てびっくりしたのは「なんでもある」ことです。

ヒト・モノ・カネ・情報。これらがすべて東京を経由しているということを実感しました。それもものすごいスピードで。

東京は何もかもが「新しい」もので埋め尽くされ、しかもそれは時々刻々とアップデートされていきます。それは地方出身の身からすれば恐ろしいことなのです。少なくとも私の住んでいた地方では漸進的にしか変わらないものが、目まぐるしく変化していくのです。それは従前の私にとっては破壊的なものでした。

見たこともないくらい大きい液晶パネルに流れる新製品の広告。まばゆいブランド品の数々。インスタ映え。まだまだ建設が進む高層ビル。数分単位のきめ細やかな時刻表。最初はまばゆく感じていたものも、いつからか「お金や情報、時間を消費している感覚」がそれを上回ってきたのです。

私の価値観はどちらかというと「古いものでも大切に使い続けていきたい」タイプです。一種の年季の入ったものが好きです。もちろん「変化が嫌い」というわけではありません。ただ、ある意味での「計画的陳腐化」には抵抗感があったのです。要は、ヒト・モノ・カネ・情報・時間を消費していくという「都会の論理」に、単純に馴染めませんでした。良し悪しではなく、「音楽性の違い」みたいなものです。

私にとって、東京とは「舞台」です。キラキラした舞台に上がるのはとても楽しいことなのですが、次第に「演じている」気分になるのです。つまり、主体的に動いているつもりでも他人の意図通りに動いている気がしてしまい、とうとう舞台に住むのに疲れてしまったのです。


それからの私

結局、大学院進学を機に4年間続けた東京暮らしを辞めました。大学まで片道2時間以上かかる地方の地元に引っ込みました。東京暮らしが「死ぬほど」辛かったわけではなく、何なら東京暮らしでは楽しかった側面も勿論沢山ありますが、個人的には地方に戻って良かったなと思います。

それは心と時間にゆとりができたことです。私の貧弱な語彙ではうまく説明できません。しかし、開放感が確かにあるのです。心を平穏に保ち、時の重みをゆっくりと噛み締めることができる感覚があります。


結局のところ

もしかしたら、偶々私が地方で生まれ育ち、地方の価値観で育ったから、私自身は地方のほうが馴染みやすかっただけかもしれません。そういう価値観は生まれ育った場所だけで決まるとは思いませんが、もし私が「東京生まれ東京育ち」だったとしたら真逆の価値観になっていたかもしれません。

本質的には、「東京と地方のどっちが優れている」とか、きっとそういう次元の話ではないのです。あくまで「私にとっては」地方がよかっただけで、きっと「東京のほうが合う人」も大勢いるはずです。むしろそっちのほうが多数派かもしれません。文字通り「価値観」の問題であり、そこに善悪や優劣はないと思うのです。

だからこそ、自分に合った場所に住むという「選択」をすることは尊重するべきなのだと思います。冒頭で紹介した記事の方も転職活動の最中だそうです。その中で色々試行錯誤して、より良い選択をなされることを祈りつつ、心の余裕があれば多少引っかかる点に目を瞑って、ひとまず労いの言葉を贈ってあげることができれば、世界は優しくなるんじゃないかな、と思います。


おまけ

そういえば東京の何に一番驚いたかなーなんて考えてましたが、今思い出した中で一番はAmazonの「Prime Now」でした。注文してから数時間で届いて、しかも配送中のトラックをリアルタイムで追跡できて「うわーすごい!」って一人ではしゃいでました。

あと心残りといえば「Uber Eats」を試せなかったこと。私の地元はUber Eatsが未進出なので、とりあえず一回試してみたかった。きっと将来あと一回は東京に住むと思うので、その折にはチャレンジしてみたいですね。


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