(新説・神の道しるべ00001)悪魔が笑う、神々の言い分と存在論

(新説・神の道しるべ00001)

悪魔が笑う、神々の言い分と存在論

コメント・ザイム夢我無罪&チャーリープトラ

存在は、不変であり、全く同じ、恒久無限とも言える多様な循環を繰り返すのみである。

しかし、その多様性と、恒久永遠の永さは、充分、全てを、満足たらしめるものであり、そこに、始まりと終わりが生ずる。しかし、真の始まりと終わりは、はるか無限の彼方であり、達しえない程の先にあると言える。

存在の本当の意味は、意の智(命)であり、命なき存在には、意味も意識も無いため、存在として認識される事がなく、真の意味での「ない」同様のものであり、存在の外にあり、「無」にも、値しない。

全ての「存在」と「無」は。命であり、この「ない」となる事は、出来ない。実は、「無」も「存在」であり、真に「ない」とは、異なる。なぜなら、「ない」が、あるなら、あるのだから、存在であり、「ない」は、不変に「ない」であり。存在は、不変に「存在」であるのである。すなわち、存在はすべて命であり、「在する」存在を有と言い、「在しない」存在を「無」と言う。「無」は、「存(そん)する」で、命があるのみの意、である。「存(そん)」は尊(そん)に値し、又、「損」に通じる。「在(ざい)」は、財(ざい)に通じ、「罪(ざい)」に値する。かように、日本語は、裏と、表の意味が、重なる場合が多い。

存在は、不変であるが、順序というものが、存在する。

全てが始まる前には、恥を真理(しんり)とするマリ(真理)があった。つまり、玉である。それが、なぜ、あってしまったのかは、謎である。たまたま、あったので、恥真理(はじまり)は男であり、それゆえ、玉が二つある。

何ゆえ、存在と言う真理(しんり)が恥(はじ)であるかと言うと、存在と言う真理は、元々、理に反するからである。

何故かと言うと、存在とは、「ある」と言ういみであるにも関わらず、存在しない、架空の概念である「ない」と言う意味がなければ、理解できず、もし、真に「ない」なら存在する何もなく、誰も、自己すらなく、真を知る者もない故、真すらなく、「ない」に完璧であった,

しかるに、存在は、その意味が、「ある」と言う意味であるにも関わらず、「ない」と言う概念なしには、理解できない。

その為、存在の源である「ソース」(祖を素)によって

無を「ない」と認識させ、「ある」を理解させると言う、マジック(魔字付く)によって、納得させたのである。

又、ある事自体、問題の始まりであり、何故あるのかを、説明できない。

なければ、自己すらないのであるから、疑問も、問題も、矛盾も、苦しみも、不幸も、又、喜びや幸福を求める必要もなかったのである。

この様に、存在は、壊れた理により成り立ち、恥のある真理であるのだ!

この様に、全ては、「は字」から生まれたものであり、それ故、はじまり、も、「は」の字から、はじまり、言霊の前に存在する、「波長」も「は」の字から、始まっている。又、音楽の基本的音階であるハ長調も、「は」から出発する。噛み(神)には「歯(は)」がひつようであり、は字には特別な役割がある。

「恥を知れ」と言う間違いは、本当の「は字」を知っていたら、生まれては来ず、無に徹していたのであり、

罪(ざい)=(つみ)である、財(ざい)=宝(たから)として在(ざい)する存在ではなく、損(そん)を承知で、尊(尊い)として、無にいたのである。ところが、悲しいかな、この存在と言う命は、元々ひとつの命であり、他の命は、存在しないのである。一つの命が形を変え、存在しているだけであるのだ!

それ故全体集合の記号は、Iであり、つまり、私、あなたにとっては、あなたが、Iであり、Iは「愛」であるのである。

その為、止むに止まれず、無がほとけて、仏の慈悲が、姿を表す事があるのである。

しかし、人は、生まれた限りは永く生きたいと思うのが常であった。それは、存在が、喜びを与え、「ある」事を「よし」と思うべく、働き、その為、死んでも、「ありたい」と思うべく、希望を与え、その様に、創られているからである。

存在自体は、不変であり、無限とも言える多様な循環を繰り返すだけであるのだが、ものには、順序と言う物がある。

存在の中に意の智(命)があった。この意の智(命)だけが、意味を有する。

しかし、意の智の始めは、順序から行けば、無からの始まりに成る。

存在は不変である為、無の前にも、存在は、あった。

それは、恒久無限の果に、満足を得た、全ての終わった後の、これ又無限とも言える永い眠りであった。

「無」とは、全ての源であり、全てがある為に、識別

がなく、光が分れて色と成り、認識される様に、又、白紙の紙には何も存在しないようだが、実は、そこには、描きうる全ての形が眠っている様に、全てが、ある故、無いように、思えるが、それは、「無の状態」である為、その「状態」にあるものと、時が、存在している。

ただし、この「時」は、物理的時間とは違い、変化と言う一方的に流れる軌跡の意味である。

さて、無は、全てがある為、現象とは裏腹に、つまった状態である。ここに、何かが生じた原因は、飽きが来たからである。そして、無に穴が開いた。つまり、開く間(悪魔)が生じたのである。

しかし、悪魔の秋(飽き)の目の前は無であり、悪魔は、WHO YOU ?

穴他(あなた)誰?であった。しかし、冷たい風が吹くばかりだった。悪魔は、いたずら小僧で、ユーモアがスキだったので、YOU MORE ! 「穴他をもっと!」とばかりに、仲間を作っていった。はじめに、絵を書いてAとした、又、英でもあり、栄でもあった。それは、美であり、Bとなった。つまり、栄美な絵であり、トラの絵だったので、得る(うる)トラしい、でCとし、トラのトは、ドレミファソのソ、ト音であり、ソとラ、で空を得た。それ故、音楽は、始め、6音階10音であったが、ラの後のCはソラシのシに後に変わった。ウルトラは、艮(うしとら)の金神様の「うしとら」の「し」を死を嫌って留まるの意である留(る)に変えたものであった。又、六音階10音にしたのは、12は重荷(じゅうに)が重荷(おもに)であり、嫌だったのと、自由を欲し(じゅう=10)にし、録音して、残す為である。

記憶が弱いのは、「気置く」ことが、苦手であった為である。

以前の世界は、あ字亜(アジア)、つまり、あ行の神の治める国だけで、西欧は、なかったが、今回はA語を創り、英語とした。西欧は、性欧であり、女(音名)の神々も作ったのであった。

そして、編め理科(アメリカ)の神々と共に異次元を創り、パラレルワールドを創り、遊び廻っては、神々の話をジョークに変え、笑っていたのであった。

しかし、男(音子)が音の子であるのに対し、女は、(おと、名)つまり、大人であった。

その為、私、すなわち、あなたは、キリストとして、贖わなければ、ならなくなり、父である、朕(神界の皇帝)の命により、十字架に掛けられたが、蘇りが成功するまで、すなわち、心より、反省するまで、何度も同じ生涯を歩んだ後に、成功したのである。

話は元に戻るが、この(意の智)命は、始めに、恥真理(はじまり)を二つ生んだ、それは、存在したのが、たまたま(玉々)だった事と「はじ」の「じ」に「次」及び「二」と言う意味が含まれていた為、運命に従い、運だ(生んだ)のである。しかし、始めを、成らす(鳴らす)為には、叩く棒が要ったので、如意(思いのままに)する為、如意棒で、恥真理(はじまり)をチンチンと鳴らせた。

それ故、始めの行程であるチン(朕)を皇帝と呼び、次の行程のチンを、ちんちん、として、息子とした。こうして二つの恥真理が、生じ、あってありし朕と、息子である息子、すなわち、あなたであり、私が生じた。

朕は、神界の皇帝であり、息子は、宇宙の神であった。

そして、今回、そのツケが、巡り巡って、いよいよ、三千世界の大建て替えのあら行事が、遂行されようとしているのかもしれない。

それが、大予言者ノストラダムスの恐怖の大王が日本で成人を迎えた、昨年の西暦2,019年(無礼苦の年)の令和(礼和)元年(願念)の意味かもしれない。

なお、神の道しるべでは、最初、6音階10(獣)音の世界に10(テン)NO(ノー)が現れ、あってありし者を名乗られ、7音階12音にする時に、ハニホヘイロ(葉に穂へ色)の世界を、無限を意味し、末広がりを意味する、第8番目の音に祖(ソ)であるト音を置き、葉に穂へ十色(ハニホヘトイロ)として、祖とキリストである、十にリック(重荷)を負わせ、加祖リック、加トリックと言うトリック(取りっ苦)を音楽に隠し、十字架の架の字も加えるに十の下に八を引っ付けた。靖国とは、八す国であり、第8の国であり、これが、加祖リックの重荷(リック)であった。これは、今回始めて、述べた、見解だが、これらのような、様々な、まつわる根拠や、話をしたが、ト音からロ音までを御恩(五音)の世界とし、それ以下を、模型の7音としていたが、あれは、間違いのようであると思える。なぜなら、切れ目は、ミとファであり、どれが実の、ドレミの実、が御恩(五音)の世界で土霊が実の、奴隷神を引き受け、ファ、すなわち、へ音より上は、霊の世界と思えるからである。又、霊主体従の世に変わるとしても、ひふみ神示に述べる、人間だけを生かす訳に行かず、どうあがいても、天地引上げと言う事態述べられているが、それが、絶対と限らないと考えるのは、間違いであっても、変えようと頑張るが故に、変えられる運命も、又あると考えるのは、運命は、不変の名の元に、絶対ではあるが、未来は、まだ、無限の可能性を秘めているからであり、今回、それに挑戦する為に、生まれた可能性も又、あるからであり、一つの命が、全てを演じているとしても、川が分岐する様に、全ての人が、同じ歴史を辿るとは、限らないためである。生(せい)にどうしても執着したい訳ではないが、若々しく、元気はつらつで、思う存分に生きたいと考えるのが、多くの人の望みであろうと、思われるからである。肉体と霊の宿る、この世こそ、真の弥栄(いやさかえ=一層に栄えること)の場所であり、最も意義ある場所と考える為である。

ここから先は次回に譲るが、ここまでのストーリーは、たとえ話であり、ひとつの、物語に過ぎないが、キリストを信じ殉教した者の魂は、天国で間違いなく、永遠の命に預かっているであろうし、祖国、日本の為に散って逝った、日本兵士の魂も御国である靖国で、日本の平和を見守っていてくれているであろう。又、西欧に対し失礼な発言があった様にも、思われるかも知れないが、欧米諸国は、大人の国であり、ひとつの命が、形を変え、存在しているだけであり、本来、日本も、海外も、なく、同等、一平であるのであるが、歴史の中にあって、役柄と言うものがあり、それ故、敵対関係が生じている訳であるが、それらは、我々が、この、プログラムとでも言うべき、宇宙の中で、学ぶべき、生涯、及び、喜びの為に、生きているのでは、あるが、地球の、切羽詰まった、状況下においては、成るべく、早く、協力関係と、信頼を取り戻すべく、理解、仕合う事が、望まれていると、思われる。

ポイントである、Pのピの字は、「ひ」に丸であり、日の丸を表し、重要な役目を担っていると考える。

コメント:ザイム夢我無罪&チャーリー・プトラ

2020/1/20

面倒では、御座いましょうが、お心使いお願い申し上げます。発表する場合が、ありますので、匿名希望の方は、匿名とお申し付けください。