法華経に説かれる誓願と日蓮による継承
以前書いたものの、引っ込めていましたが、衆目に晒しておいたほうがよいと思い、ここに再掲します。
noteの更新も滞っていまし、この記事を書いてから久しいのですが、標題の探求はちびちびと進んではいるので、また各論が書ければと思います。
私は以前、大乗仏教における誓願の意義を、「決意」と「誓い」の違いとは何か? という問いを立てて話したことがあります。ここでは特に法華経に説かれる誓願と、日蓮がそれをどう継承したのかについて、ざっくりとですが考えてみます。以下は、私の信仰的解釈をかなり交えています。
欲求、願い、決意、誓い
大乗仏教における誓願とは、修行を始めるにあたり起こすものであり、この誓願を支えとして菩薩は、自身の成仏(自利)と一切衆生救済(利他)のための修行、菩薩行に精進します。つまり誓願は、菩薩のアイデンティティの核をなしています。差し当たり四つの概念を区別し、誓願のもつ意味を考えてみたい。
人間には必ず①「欲求」があり、それが生存の基盤にあります。それは無意識なり衝動的なものです。身体感覚であり、内臓の感覚であり、脳で言えば前頭葉より原始的な部位、理性より情動を司る部位と言えます。
それを言語化したのが、②「願い」と言えます。ああしたい、こうしたい、誰でもいつでもあります。人間は願いごとばかりの動物です。
さらにそうした願いを自身で自覚的に強く立てるのが、③「決意」と言えます。これは質的に倫理的にも高まっています。しかし自己完結しがちな面があります。
では決意と④「誓い」は何が違うか? 私は「他者の介在」を考えてみました。誓いは、必ず誰かに対して結ぶ「約束」というかたちをとります。そしてその誰かとは、師匠なり自分の尊敬する人、あるいは故人、神や仏です。故人に対する誓願は廻向となり得るでしょう。さらに、その誓いを破るまいという拘束力を持つと同時に、成就への強力な駆動力となり得ます。こうして仏に誓うことで、自分の願いを質的に高め、強めることができます。自分より高貴な存在が介在し、それとの約束という面が、単なる決意とは決定的に違います。
(後述する日蓮における誓願は大願とも本願とも言いますし、願い・決意・誓いは意味が重複する面がありますが、誓いの持つ意義を深めるため、便宜的に区別して考えてみました)
法華経が説く仏の誓願
大乗仏教は、衆生の生存の基盤である欲求を否定せず、それを菩薩の誓願として昇華させたのでしょう。初期仏教ないし原始仏教では、欲望が執着を生みそれが苦となるとしていましたが、大乗仏教ではこの問題を誓願として再解釈したと言えます。いずれも生老病死の苦を解決するという目的意識は共有していると思います。
初期大乗経典である法華経には、釈尊と諸仏の誓願が何度も説かれており、それを地涌の菩薩が継承するさまが描かれています。仏の誓願を、上行以下地涌の菩薩が受け継ぐ虚空会の儀式という、師弟にわたり誓願を授受するさまです。
その意味で、法華経は「誓願の経典」です。“誓願だらけ”といってもいい。代表的なものは、方便品の「如我等無異」*1(一切衆生の境地を自身と等しく異なることのないようにしようとの誓願で、これは今成就されたこと)、如来寿量品の自我偈末尾「毎自作是念 以我令衆生 得入無上道 速成就仏身」*2(如来は常にどうすれば衆生を無上道に入られ速やかに仏身を成就させることができるか念じている)の誓願です。前者は釈尊の菩薩としての誓願、後者は如来としての誓願です。仏意とも言えます。
法華経の最重要の法理は、寿量品で明かされる久遠実成ですが、これを誓願という観点から説明するとどうなるでしょうか。久遠実成の釈尊とは、久遠といえる計り知れない期間を、ひたすら誓願を実践することに使っていることを明かし、これこそが、仏の本地であると明かしています。より丁寧に言えば、久遠の昔に誓願を立て、それが成就して覚りを得ても、なおかつ誓願を貫き通し、歩みをとめずに菩薩行を永遠に続けていく。仏の本地とは、永遠に誓願に生き抜くということです。
仏の誓願に自身を同期させゆく日蓮
その法華経で明かされた仏の誓願を、日蓮が自身の誓願として受け継ぎ、明かしたのが、代表作「開目抄」と言えます。私は開目抄を、日蓮が自身を如来の誓願に同期(synchronize)させていく様を明かした書、あるいは法華経の誓願を日蓮が末法における誓願に練り直した書と拝しています。開目抄は受難の連続である自身を法華経の経文と照合していきますが、途中でそういう論証を振り切って、放棄するかのように「私は誓願に生きるのだ」と飛躍していきます。自身の三大誓願*3 を明かし、さらに「我並びに我が弟子」以下*4、その誓願を貫く信によって、求めずとも自ずから仏界に至ること強調します。これが日蓮の成仏観と言えるでしょう。要するに、開目抄は(観心本尊抄でも言及する)仏界とは何かを、誓願というかたちで教えていると言えます。仏界というものを十界論の範疇にとらわれがちしたが、日々のお勤め、唱題行の意義も、誓願によってより深く理解できればと思います。
この十年ほど、私は「仏の人格の核心は誓願である」あるいは「誓願は仏界の人格的表現である」ということを、自身の信仰を通して探求してきたつもりですが、ざっくり言えば以上のようになります。詳細は再度書いてみたいと思います。ここまで読んでくださりありがとうございました。■
写真は日蓮の代表的門下・南条時光のルーツの地である南條(静岡県伊豆の国市南條)付近で撮った稲穂
*1: 『妙法蓮華経並開結』創価学会教学部編、創価学会、130頁。
*2: 前掲『妙法蓮華経並開結』466頁。
*3: 『日蓮大聖人御書全集 新版』池田大作監修、『日蓮大聖人御書全集 新版』刊行委員会編、創価学会、114頁。『新編日蓮大聖人御書全集』堀日亨編、創価学会、232頁。
*4: 前掲『日蓮大聖人御書全集 新版』117頁。『新編日蓮大聖人御書全集』234頁。