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映画評「となりのトトロ」/例えるなら、割烹料亭が提供する、絶品お子様ランチ

久しぶりに観ました、「となりのトトロ」。

金曜ロードショーで、昔父親と観た作品を、自分の子どもと観る。
そんな体験ができるとは、10年前は思いもしなかった。森羅万象に感謝。

「となりのトトロ」自体は、幼少の頃より、何回も観た慣れ親しんでいた物語なのですが、これもベタな話、久しぶりに見返すと、子どもの頃には無かった感情に襲われます。

「トトロ」って、こんな薄気味悪い、ホラー要素「も」ある作品だったのね。

何が薄気味悪くてホラーなのか、というと、

①いつの時代の話なのか、詳しいことはわからないが、現実感・既視感はある

②それは、日本人の原風景なユートピア的世界なのにも関わらず

③登場人物の身近に、「死」が存在する


という点です。

病気がちなお母さんや、迷子になるメイ。お迎えに来る猫バス。

老衰でもなく、人が死ぬ。
死んでしまうことが、悲しくはあるけど、珍しくはない世界。

そんな世界に、唐突に、子供にしか見えない妖精が現れ、一緒に遊んだり、助けてくれたりする。

純粋だったら見える、というわけではなさそうだ。
子どもの与太話を、一切否定をしないお父さん(「メイどこ?」という問いに、「庭で遊んでない?」と言い放つ能天気ぶり。どこまでが庭だよ。)でも、見えてないらしい。

まさに、「子供のときにだけ あなたに訪れる不思議な出会い」

ホラー要素を強く感じさせるのは、物語のバランスの崖っぷちインコースをえぐる感じ。
何気にすらすら見ているのですが、実は、絶妙で無茶な丸投げによって、ぎりぎり成り立っている。

昔は、ただただ楽しく、トトロや猫バスに興奮していた。
だが大人になると、わからないことだらけ。
今やおなじみ、都市伝説で、「サツキとメイは死んでいた」説が流布され、それなりの信憑性を持って語られるのもむべなるかな。

「トトロは存在する」
という前提に立たないと、物語の整合性が取れない。

子ども心なら、そんなことは容易い。
メイと同じ、「だっていたんだもん。嘘じゃないもん」である。

だが、大人になれば、、、

「そもそも」、トトロってなんだっけ
迷子になったメイを、「実際には」どうやって発見したんだろう
不意に戻ってきたサツキとメイを、「なぜ」村人は疑問に思わないのか

信じる者(=子ども)には当然だけれど、否定はせずとも信じない者(=大人)には、説明がつかない着地。

・現実感はものすごくあるが
・全体的な辻褄・整合性はとれていなくて
・でも全体的には幸福感がある

これって、要は「夢」です。
誰かの夢を覗き込んだら、こんな感じかもな、というシュールな感じで、目が覚めそうな破たん寸前だけども、見事に終幕してみせる。

とかなんとか言ってみても。

そんなことを考えてしまうのも、結局は、「大人になっちゃったから」。
それに気付くと、もう何書いても悲しい。
つまりは、「子どもには興奮」「大人にはノスタルジーと若干のホラー」を、同時提供できているというのは、バカみたいな表現ですが、宮崎駿はやはりすげえ人だなと改めて感じました。
「大人が見ても楽しい」「大人が見てこそ楽しい」というような「ファミリー映画」は数多いのですが、年代によって全く違ったものが見えてくる、そんな作品は稀有です。

例えるなら、割烹料亭が提供する、絶品お子様ランチ。
いいなー。俺も昆布締めとかどうでもいいから、オムライスが食いたいな。でも、酒には合わないな・・・酒は飲みたいし。うわ、この玉子!ダシ巻きじゃねえか、おおソーセージに隠し包丁入れてる!

そういう作劇的バランスにおいて、映画史の中ではもちろん、宮崎駿作品においても、「となりのトトロ」は屈指でしょう。

そう考えると、「紅の豚」「魔女の宅急便」という文句なしの活劇。
「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」で、空中分解しかけ、整合性という点で危うい綱渡り。
その果てに、バランス取るの疲れた、もうやり切った、と思ったのか、「細いことはどうでもいいや。その時の場面・動きのカタルシス最優先にしちゃうもんね」な、「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」に行き着いたのも、妙に納得がいく気がする。

以前は、「となりのトトロ」と、「火垂るの墓」が同時上映だった、という点に、「明るい妖精ファンタジー」と「暗くて重い、戦争不幸話」の二本立てって狂ってるな。
そう思っていたのですが、どっちの作品も狂っているというか、明らかに対になってると感じまして、それは明日に回します。

映画評論家気取りですみません。私は、気持ち良く書いてるので、しばしお付き合いください。


追伸

サツキ「メイは、お母さんのいる病院に行ったんじゃないか」
お婆ちゃん「大人の足でも3時間はかかる」
こういうディテールが、現実感をもたらす部分なのですが、「徒歩3時間」って、どれくらいなのか、わかります?
3時間ぷらぷらしてたら、どこに着くか。3時間かけて、ここまで行こう。ではなく。
休まずに歩き続けて、3時間かかる距離。
現代だと、車で3時間、電車で3時間ならどこまで到達するか大体わかるが、徒歩3時間って、どんな距離かはピンとこない。
けれども、確かに、「徒歩3時間」が距離を示す共通語として機能している時代があった。
こういう現実感が、「妖精」が登場するファンタジーへの落差、良い意味での座りの悪さとして機能していると思うのです。

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