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高校のマラソン大会での話

私の高校にはマラソン大会があった。30km以上の距離を朝から夕方まで走らされる。それが年に1度、3年間も続く。走ることが何よりも嫌いな私にとっては地獄のような学校行事だった。

高校3年生のマラソン大会。やっとの思いで3度目の完走を果たした。これでようやく忌々しい行事から解放される。ほっと一息つくはずだった。

完走した瞬間、当日、ズル休みで棄権したクラスメイトからある言葉をかけられた。

「ざきくん、ゴールするのおせぇよ」

確かに順位は下から数えた方が早かった。何なら復路の半分くらいは歩いてたし、それは仕方ない。と言うか、そもそも早くたどり着こうとしていなかった。時間内にたどり着けば良いや、そう言う考えで走っていた。
でも、途中何度も歩いてでも私は3年間完走した。やるべきことをやるだけやった。
体調が悪い訳でもないのに観客席に逃げたそいつとは違う。
1日中、体を動かして疲労困憊だったこともあった。普段は沸々と沸いたものをそのまま投げ付けるようなことはしない。だが、その時の私は違った。頭に血がのぼり、そのまま脳内に湧いて出た言葉を投げつけた。

「走ってもいねえ奴が言うなよ」

彼はすぐさま黙った。

それから一言も発することなく、その場から離れていった。

走ってもいない人間にとやかく言われる筋合いはない。私が言葉をぶつけた理由は、ただそれだけのことだった。

先日、大学入学共通テストの平均点について、話題になっているニュースを見た。

自分はその年の試験を受けてもいないのに、あれこれ言う人間が毎年いる。

俺たちの年より平均点が下がってるとか、何だとか。

そう言う話題に付き合わされる度に「その年の試験を受けた人間以外は何も口に出す資格は無いと思いますよ」と私はいつも返答している。

きっと現在進行形で走っているランナーにしか分からない。ゴールに向かって挑戦を続けている本人や一緒に走っている者同士にしか分からない。

たとえ同じ道を過去に走ったことがある人間でも。その日、その時、その場所のことは一個人の過去の経験にすぎない。

人間、年齢を重ねるごとに経験で物を語りがちになる。

私が彼らに出来ることはほとんど何もない。もし出来ることがあるとするならば、ただ彼らが彼らなりに考えて走っている様子を静かに見守ることくらいだ。

そりゃ何か求められたら反応するけれど、無言で観客席に座っているだけでも、エールは送れると思っている。私はその人の人生のプレイヤーじゃないのだから私のやり方以外に口を挟むつもりもない。だから、頑張れとも言わない。

そして、歩いてでも良いから、いつの日かゴールに到着した時に、素直に「お疲れ様」「良く頑張ったね」とタオルをかけてやれば、それで良いんじゃないのかな。と、あの日の3度目の完走から思っている。

そして、息切れしながら今の私もヘロヘロと歩いてる。

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