手のひらを太陽に
通学路の途中にあった畑や田んぼ、
近所の子と集まってよく遊んだ空き地、小川に続く坂道。
私にとって思い出あふれる馴染みの場所は、この数年ですっかり様変わりしました。
同じような造りをした戸建てや公園付きのアパートが集中して建てられ、小学生の子どもがいる家族がまとまって越してきました。
頻繁に出入りする車のエンジン音や、子どもたちのはしゃぐ声。
実家は大通りから奥まった、閑静な住宅街にありますが、新しくつくられた道路の向こうに建ち並ぶ家々の賑やかさは、こちら側まで伝わってきます。
初めのうちは、音の多さに苛立ってしまうこともありましたが、コロナ禍を過ごすうちに、そういった近隣の方々の気配に安心を感じるようになりました。
何より、子どもたちの笑顔や明るい声は、元気と癒やしを与えてくれます。
この辺りは、私が子どもの頃から野良猫の姿をよく見かけます。
どこで餌を調達しているのかは分かりませんが、痩せた姿を見たことはありません。
実家の庭は、昔は野良猫たちの通り道にされていて、いたずらされる度に父が「やられた!」と悔しがっていたのが懐かしいです。
今は私の記憶の中と違うもようの猫が棲みついているようです。
ふらりと歩いていたり、休んでいたりしているところをたまに見かけます。
かつて子どもだった私たちがそうしていたように、今の子どもたちも、猫を見かけると名前を呼んで(勝手に付けた名前ですが)可愛がってあげているようです。
以前、通りで遊ぶ子どもたちの傍らで、猫が見守るようにちょこんと座っていたのには驚きました。
父の庭には、時々日向ぼっこしにやって来るそうです。
そんな住宅街で、まさかの新事実が!
実家から少し歩いた先の、元は空き地だった場所。
新しく家を建てるにあたって発掘調査を行った際に、なんと遺跡が見つかったらしいのです。
もしかしたら、当時は回覧板や掲示板に載っていたかもしれませんが、私も両親もまったく知りませんでした。
たまたま私が散歩がてらにその辺りに足を運び、家々のすぐそばの一角に文字が刻まれた大きな石を見つけたのでした。
「〇〇遺跡 202X年発掘」
石碑の近くには、説明書きの看板も立っています。
読んでみると、古墳時代から平安時代にかけての集落の跡が数軒、発見されたとのことでした。
食器として使われていた、甕や坏も出てきたそうです。
え、すごい......
驚きで、説明書きの前でしばらくぼおっと立っていました。
実家から車で数分の場所には、実は古墳もあります。
小学校の社会の授業で、学校から歩いて見学しに行ったこともあります。
整備が行き届いているようで、遠くから眺めるといつ見ても整った形をしており、季節によって花も咲いています。
車で頻繁に近くを通りますが、昔から当たり前にあって、古墳の存在を意識することはありませんでした。
集落、古墳......
今いるこの場所で、昔から人々が暮らしていたのです。
食事を作り、眠り、働き、家族と、仲間と、日々を繰り返していたのです.…..。
誰の言葉だったか、聞いたのか読んだのか、私が常日頃思っていることがあります。
“毎日が誰かの誕生日で、誰かの命日でもある”
“私が立っているこの場所は、誰かが生きて、誰かが亡くなった場所でもある”
こう考えるとき、今、自分がここにいることが不思議でたまらなくなります。
地球が誕生し、人が生まれ、繰り返されてきた命の循環、そのほんの一部である自分の魂。
今ある私の命まで繋いでくれた祖先の存在、
関わってきた人々......
考え始めると気が遠くなります。
かつて、この辺りを支配していた王がいて、ここに家があって、人々が暮らしていた。
そして今も、同じ場所に家があり、人々が暮らしている。
私たちが、生きて、暮らしている。
何だかそれだけで、十分でした。
見上げた太陽のきらめき、
力強く咲いて潔く枯れていく花々、
家々から聞こえる暮らしの音、
考え、呼吸して、ここに立つ私。
命に感謝を…….
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