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閑話/Hiphopは多様性の名の元に沈黙する

なぜhip hopは多様性のあるカルチャーと言われるようになったのか。



元配偶者がHIPHOP系の音楽関係の仕事をしていたこともあり、当時は日本人自体そう多くないこともあって私の身近には日本人コミュニティが無く、自然と黒人・ヒスパニック系のカルチャーの中にいることが多かった。
そんなHIPHOP生誕50周年ということもありアメリカ生活回顧録の一環としてちょっとHIPHOPに関して徒然してみようと思う

HIPHOPは「音楽」ではない、カルチャーだ

その頃はHIPHOPはだいたい2世代目くらいの勢力、ちょうどカリフォルニアではいわゆるギャングスタ ラップやチカノヒップホップが勢力を伸ばしている頃で、HIPHOPがワルさん達の音楽というイメージを持たれ始めた頃だ。
とにかくHIPHOPは音楽だと思っている人が多いのでここで注釈をいれると音楽はあくまでもHIPHOPカルチャーを構成する一部門だ

元配偶者(以降Ex)はHIPHOPを始めた世代でAFRICA ISLAM、GRANDMASTER CAZ、Melle MellなどとなみいるBIGNAMEと親交が深かったおかげで、彼らのHIPHOPを幸運にも肌で感じることができた

彼らからするとギャングスタラップ以降はHIPHOPと呼んでほしくないという感じで、実際Notrious B.i.Gと2pacの死をもってHIPHOPは死んだという言葉を数回聞いた。 
その頃の彼らからするとBiggie と2pacが最後のHIPHOPスピリッツの後継者っだたようだ

HIPHOPは70年代からの流れからずっと続いてきたムーブメントがブロンクスでBIGBANを興したようなもので、80年代のパーティな気運をからめとって成長したのだろう
そして90年代には多様性のあるカルチャーとして世界中に広がることになる


HIPHOP誕生の裏側に潜むもの



誰だか忘れたが、西海岸には本当のHIPHOPはわからない、親の家に住んで水や電気やガスを止められて死にそうになった経験がないヤツに何がわかる、と言われたことがある。HIPHOPの芽が生えるのが第一世代のティーンの頃ならちょうど70年代でその頃はアメリカはゴリゴリの差別感満載で、多くのアフリカ系、ヒスパニック系は貧しい家庭で育っている
「貧しいイコールHiphopの理解者」が正しいのかわからないが
当時のお金を落とす層が楽しめる遊び場は多分 貧しい若者が行ける場所ではなかったし、行って楽しめる場所では無いことは想像に難くない。
だったら自分達で遊び場を作ろう!という流れになるのは自然なことだったろう。

かくしてあのsedgwick にてムーブメントが始まることになる



イベントは小さなイベントであればあるほど面白いと思う。
彼らは自分達がが楽しむために集まり、内輪で楽しんで来たものがいつの間にか音楽ーダンスーグラフィックーファッションと繋がり、ブロンクスのプロジェクトだけにおさまりきらなくなり、波は流れ続けた。

だが、本来ならばプロジェクトに住む若者が自分達のために作った遊び場だったが、ニューヨークという街の性質上、黒人だけでなくプエルトリコ系なども少なくなく彼らの客人として他の人種も入り交じり、これが「多様性のある」カルチャーと言われた所以ではないかと思う。
それまでのアメリカのカルチャーは全てが人種ごとのグループの中で発展してきた
もちろん少数の他人種が混じることがあったが多くは観客としての存在で、その中心部に他人種がいることはほぼなかったのではなかろうか。
だが このHIPHOPというカルチャーはヒッピー文化を経て他人種同士の融合の時代という実験的な土壌の上に生まれた。
違う人種が混じり会うのを良しとする時流の中に生まれた世代のはじめての大きな文化の誕生であれば
人種を越えて文化を作っていくのがごく自然であったはずだ。
実際、元々違うコミュニティにいたプエルトリコ系と黒人の少年/青年達が主にイニシアチブを取ってダンス、グラフィティの文化を共に発展させ、Bboyという共通項で結ばれる。

元々は小さな地域の限られたコミュニティの中のイベントが歴史的な伝説のカルチャーになるのは決められていたのかもしれない


閑話休題
つづく



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