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あの日言えなかった言葉。


「周りの人にようしてもらって
元気にするんやで」

祖父と最後に交わした言葉だ。
初孫だった私を可愛がり、
何でも買い与えようとしては
母に怒られていた祖父。

私や弟、いとこたち孫と
将棋くずしやトランプ、花札をしては、
夢中になるとすぐよだれを垂らしていた。
読み聞かせも新潮文庫など、
何故か絵本でされた記憶がない。
迫真に迫る祖父の演技だった。

祖父とデートした東京の名所は数知れず。
小学生の私は浅草を祖父と回るのがとても好きだった。

また、電車の車掌になりたかった祖父は、
常に時間にきっちりとしていた。

そして計画が大好きだ。
私が行きたい場所を言うと、
綿密に練った計画を立てる。
「何時何分の汽車に乗るから何分に家を出るで!」
と張り切るわけである。ちなみに、電車と言えない祖父はずっと汽車と言っていた。
昭和の人間だ。


胸にうずく後悔と、懺悔。


詳しい病名は母にも聞けずじまいだったが、
白血病の一種に祖父の体は侵されていった。
甘いものばかりほしがって食べているのに、
次第に体はやせていき
自宅で最期まで祖母を呼んでいたそうだ。

祖母も心得ているので、
「はいはい」と言いながら祖父の願いをかなえてやる。
(たいていはこのお菓子がほしい、私の母と電話がしたいとかかわいいものだったのだ)

もう長くはないのかもしれない。
そううすうす気づいていた。
私の母からのLINEで、
こんな様子だったよ、と送られてきたから。


遠くに住んでいて、新幹線に乗らないと会いに行けない。
仕事をなかなか休めない。

理由をつけて会いに行かなかった。

なぜだったのだろう。怖かったから?
あんなに元気だった祖父の
やせた変わり果てた姿を見るのが。


6月のある日、電話がかかってきた。
「元気か?」
相変わらず、祖父は私のことばかり気にしている。そして私の娘たち、つまりひ孫のことも。
優しい人だ。愛にあふれている。

そして、
「周りの人にようしてもらって
(よくしてもらって)
元気にするんやで」
といつもの関西弁で言った。

どうして自分の体が死に向かっていることを
うすうす感じているはずなのに、
そんなに他人の体を思いやれるんだろう。

それが、祖父と最期に交わした言葉になった。


「会いに行くよ、それまで元気でいてね」
どうして伝えられなかったんだろう。


電話を切り、私は胸の奥から湧き上がる恐怖と
闘っていた。
迫ってくる、大好きな祖父の死が近づいてくる。
いやだ。こわい。


新幹線に飛び乗ればよかった。




今帰省して仏壇にそっと祖父の
大好きなお菓子を供えながら、
「ごめんね」
「私たちを守ってね」と話しかける。

祖父からもらった、10年以上前のマフラーを
今も大事にしているんだ。


今日は書く部の「みんなで書こう」企画
#あの日言えなかった言葉に参加しています。

会える人には会えるうちに想いを伝えよう。
そう今なら思えます。

明日もよき日になりますように。

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