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「痛いな」

朝井リョウ氏の「何者」を読んで最後に真っ先に思ったのは「面白かった!」ではなく、「俺って痛いな」だった。
面白さを余裕に超えてくる「俺って痛いな」がいた。

「何者」は就活とSNSを扱っており、一通り就活を経験した大学4年の私が読むにはちょうどよいタイミングだったと思う。
読み始めた際にも「俺が痛い人間なのはすでに知っているわ」と思いながら読んでいた。読み進めれば読み進めるほど、思い当たる節がありすぎて、「やっぱ痛いよな」と共感と羞恥心で妙な心地よさに襲われた。

自分はまさしく主人公みたいな人間だろうか。
「そうそう。こういう奴痛いよな」と自分の痛さを一旦置き去って、達観した気になって読んでいる。その自分がすでに痛いのである。

だから最後のどんでん返しの感想が「やっぱ、俺って痛いな(思っているよりも)」であった。

自分がすでに痛いことはわかっているが、実はそれよりも数倍痛い自分がいたことを知ってしまった。

ここまで拙い文章であるが、自分のこの本の感想を綴った。

読了後、ひとつ疑問に思ったことがある。
それは「なぜ『痛い』と表現するのか」である。
この疑問について自分なりに考えてみた。

一般的な「痛い」とは物理的な何かで肉体が苦しくなることだろう。
私は「棘」を想像した。
「痛い」人が出している「棘(=発言・振る舞い)」がその周囲にいる人たちを刺している。それが「痛い」なのではないかと。

私は自分が「痛い」人間だと知っている。だから、痛くない人間になりたいと思い、インスタでの投稿やストーリーズに気を遣う。

そうやって少しずつ自分から棘を抜く。
しかし、そうして棘がなくなった人間に何が残るのだろうか。
「痛さ」とは「らしさ」「個性」なのではないかとふと思った。
棘がなくなった人間は痛くないが、その人を表すものがなくなってしまった無個性な人間ではないかと。

もちろんその「個性」や「らしさ」にも良いもの悪いものという見方は大切である。

結局何が言いたいのかわからないが、この本を読んで、「自分って痛いな」と思い、「痛くない人間にならなくては」と思うのは早とちりな気がする。

こうやって自分の心情を書いている私を「痛い」と思う人もいるだろう。私も痛いと思っている。それでもそれが私の「個性」だろう。

「痛さ」は自分自身で受け入れるものである。




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