朝型への誘い3

   日記より28-6「朝型への誘い」3          H夕闇
              七月七日(日曜日)曇り時々晴れ
 ルソーの全著作を調べたら(文字通り)「自然へ帰れ」との文言は無かったそうだが、多くの思想家が同様の理念を模索して来たように思う。宮沢賢治も多分「お天道(てんと)さん」より早く畑へ出て、土を耕(たがや)し、草取りし乍(なが)ら、人間や文明や芸術に就(つ)いて、自然と問答したのではないか。
 人は自分に都合(つごう)の良い植物を依怙(えこ)贔屓(ひいき)して、他は「雑草」呼ばわり、根絶やしにする。生徒たちには公平を説き、人の道を諭(さと)し乍(なが)ら、人類の倫理を自然界へ敷衍(ふえん)しようなど思い及ばぬ。それが僕らの哲学の限界だ。
 例えば、コスモスの花は僕らの目に好ましいから、道端に育てて、行き交う人々と喜びを分かち合いたい。でも、杉菜(すぎな)は醜(みにく)いし、食用にもならぬから、遮二無二(しゃにむに)も摘(つ)み取る。無慈悲にも取って捨てる。だが、その地下茎が春先に頭を擡(もた)げて「つくし」と云(い)う名で人に愛玩(あいがん)される事実には余り気が付かない。
 植物には感情が無いから、未(ま)だしも、言わんや牛や豚や鶏をや?この見識の矛盾と人道上の理不尽は一体(いったい)どうだ!。猫の皮を剥(は)いで楽器を作る文化、犬を食する民族も有る。狩猟(ハンティング)や釣り(フィッシング)には、(原始時代でもあるまいし、)今日では食糧の要は無い。趣味や流行が有るばかりだ。面(おも)白(しろ)半分の虐殺だ。
 黒人奴隷や植民地支配より甚(はなは)だしい。市民(ブルジョワ)革命を近代的民主主義の黎明(れいめい)と位置付けて神聖視する歴史観も、疑問だ。それがイギリスで緒(ちょ)に就(つ)いた頃、同じい国民が自由を求めて新大陸へ渡り、先住民を追い払って植民を始めた。その植民者たちの建国アメリカが、軈(やが)ては博愛を謳(うた)って、独立戦争を起こしたのだ。フランスやロシヤでも、平等と云(い)う美名を掲(かか)げて、革命家たちが国民に対して恐怖政治を敷いた。
 そんな諸々(もろもろ)の想念を、宮沢先生は、冷害の多い郷里の畑で、抱いたのではあるまいか。僕は犬から学んだ。
 ここへ引っ越して以来、僕は末っ子として仔犬を育て、早朝(出勤前に)散歩へ連れ出し、夜明けの川や森の大気と共に触れ乍(なが)ら、自然法を教わった。人間の狭い視野から少し脱し、世界が違って見え始めた。大地が太陽と共に目覚める壮大な気配は、職場で鬱屈(うっくつ)した気分を一掃し、人生観が変わって行くのを感じた。
 僕が育てている筈(はず)の子犬は、いつの間にか共に語り合うべき友となった。そして、軈(やが)ては僕を追い越して老い、死の手本を示してくれた。犬と暮らすのは、不思議な体験だ。動物の目を通して、人間に都合(つごう)の良い世界観の呪縛(じゅばく)から自由になると、(神だの仏だの「第一原因」やら「ガイスト」やらと人々は様々に名付けて来たが、)この宇宙を規定する法則性が時に垣間見(かいまみ)える気がする。震災で現代文明が半(なか)ば崩壊した時も、(犠牲者に対しては甚(はなは)だ不遜(ふそん)な云い方ながら、)人類の歩みを根本から問い直す絶好のチャンスだった。
 その為(ため)には、夜の狭い書斎から朝日と共に起き出して、大自然のチッポケな一部に帰し、(小部分ならば、その自覚の下、幼児の如(ごと)くに、河原で水切りにも興じて、)幼い者と一時この世を楽しむのが良い。ゲーテも夜明けの空の茜(あかね)色を越(こ)よ無(な)く愛(め)でた、と教わった。僕は(浅学にして)かのシュタイナーを知らないが、その国土に朝を齎(もたら)した太陽も、僕と愛犬を育てた天体と同じ物だった筈(はず)だ。ツァラトゥストラ(ゾロアスター)は昇る日輪に「汝(なんじ)、大いなる天体よ!」と呼び掛け、歓喜を以(も)って迎え入れたそうだ。
 S先生よ、どうだろう?朝型人生も悪くない。「早寝早起き朝ごはん」は幸福論の妙諦(みょうてい)ですぞ。 
(日記より)
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   「火星が出てゐる」  高村光太郎
 
火星が出てゐる。
 
要するにどうすればいいのか、いふ問は、
折角(せっかく)たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄(きよ)い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まった駒込台の真上に光る
あの大きな、まっかな星を見るがいい。
 
火星が出てゐる。
 
木枯が皂角子(さいから)の実をからから鳴らす。
犬がさかって狂奔する。
落葉をふんで
藪を出れば
崖(がけ)。
 
火星が出てゐる。
 
おれは知らない、
人間が何をせねばならないかを。
おれは知らない、
人間が何を得ようとすべきかを。
おれは思ふ、
人間が天然の一片であり得る事を。
おれは感ずる、
人間が無に等しい故に大である事を。
ああ、おれは身ぶるひする、
無に等しい事のたのもしさよ。
無をさへ滅ぼした
必然の瀰漫(びまん)よ。
 
火星が出てゐる。
 
天がうしろに回転する。
無数の遠い世界が登って来る。
おれはもう昔の詩人のやうに、
天使のまたたきをその中に見ない。
おれはただ聞く、
深いエエテルの波のやうなものを。
さうしてただ、
世界が止め度なく美しい。
見知らぬものだらけな不気味な美が
ひしひしとおれに迫る。
 
火星が出てゐる。
       
      (詩集「猛獣篇」より)

 

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