連載長編小説『別嬪の幻術』10
10
斜陽は少し柔らかくなっただろうか。西山に暮れていく夕日は京都盆地に灯火を与えるように、平らな光を放っている。その光を、鴨の流れが反射して、中洲に茂る草花が心地よさげに揺れていた。ようやく気温も落ち着いて来た。日中は三十度に迫る日が続いているが、夕方になると過ごしやすくなる。心なしか、秋の夕方の加茂大橋を走る車もゆったりと進んでいるように見える。
用があるのは鴨川を一望できる旅館――洞院家の旅館だった。大学を出て、僕はまっすぐこちらにやって来た。徒歩で五分ほどだ。しかし午後六時が近づき、まだまだチェックインに追われる時間帯で、僕が川端通に到着してからずっと、旅館の入り口は忙しい。局地的な繁忙期が過ぎるのを待って、僕は旅館に入った。玄関に入ると、洞院才華の母親が出迎えてくれたが、僕の顔を見て客ではないことを察した。女将は「どないしはりましたのん」と訊いた。
「才華さんのことで、いくつかお伺いしたいことがありまして」と恭しく微笑を浮かべて答えると、女将は主人を呼びましょうかと言ったが、僕は主人だろうが女将だろうが、話が聞ければどっちでもよかった。ただし、質問に答えられるのなら。
今手が空いていることを確認して、僕は女将に話を訊いた。どうやら今夜チェックインする客の殆どが来館を済ませているらしい。残るは数組ということだった。
つかぬことを伺いますが、と前置きした上で、僕は洞院才華の恋愛事情について訊いた。むろん、今堀との関係のことだ。僕は自分の心に鞭打って、あれほどの美貌に天才とまで言われる頭脳、それに誰からも好かれる素晴らしい性格の彼女に恋人がいないとは思えないのですが、と口にした。僕の顔は、能面より感情がなかったかもしれない。
女将の返答は「さあ」だった。娘の恋愛事情については疎いらしく、これまで恋人がいたのかどうかすら聞いたことがないそうだ。僕だって恋人ができてもわざわざ親に報告などしない。千代のことは、すでに親も知っているが。まあ、親子とはそんなものだろう。
重要なのは洞院才華と今堀の関係性だ。恋人でなくても構わない。二人は高校の同級生だったそうだから、恋人でなくともその存在は知っているかもしれない。案の定、今堀の名前を出すと女将は心当たりがあるようで、うんうんと相槌を打った。しかし知っていると言っても、やはり高校の同級生という程度のことだった。「才華が仲ようしてもろてるとは聞いたことありますけど、今堀君がどうかしたんどすか」
いえいえ、と僕は体の前で手を振った。「今堀君がどうこうというわけじゃないんです。どちらかと言うと彼の身近な人が才華さんの失踪に関わっているんじゃないかという可能性を考えているだけです。可能性と言っても、ほんの僅かかもしれませんが」
「それは誰なんどす?」
高島美佐だ。彼女はどこの地層から掘り出してきたのかと思うほど強力な粘土だ。今堀への執着は底が知れない。しかし今はその名前は伏せた。僕は女将に「古都大生の女子学生で、才華さんに言い掛かりをつけて来たような人はいませんでしたか」と訊いた。
望みは薄い。だが高島美佐ならやりかねないと思った。訊いたのは念のためだった。やはり、そんな人は来ていないとのことだった。僕は話題を変え、洞院才華の友人関係について質問した。両親が知る存在だとすれば、洞院才華がこの旅館に招いたことがある人物に限定されるだろう。僕は彼女が旅館に連れて来た友人について訊いた。その中に佐保はいた。他にも医学部の同級生の名前がちらほら上がったが、そこに今堀や長沢の名前はなかった。僕は佐保の印象を訊いた。
「ああ……あの事件で亡くなった娘どすなあ。ほんま無念どす。何遍か来てくれはったんやけど、ええ娘やった記憶があります。すらっとしてはって、ねえ? 才華もお世話してもろて、娘はあんまり外には出えへんのやけど、佐保さんとは時々出掛けてましたさかい。ほんまよくしてもらいましたえ」
「その佐保さんと、どこかに出掛けるといった話をしてはいませんでしたか」
それが松尾大社と何か繋がりがあれば、また話が変わってくる。佐保は洞院才華が大学に来ないことをやけに気にしていた。その理由は洞院才華から何かを聞かされていたからだ。あの時の佐保の様子から想像するに、洞院才華は自分が夏季休暇後に大学に来られなくなる可能性を伝えていたのではないか。そしてそれは現実となり、洞院才華が何かしら事件に巻き込まれたと考えた佐保は伝言の内容から松尾大社に何かがあると踏んだ。だがそこで殺された……。
女将は困ったように口を曲げ、弱々しく首を左右に振った。
「そんな話は聞いてまへん」
「その……才華さんのことで、何か報せが来たりはしてませんか。たとえば誘拐犯からの身代金の要求とか、そういったものは届いてませんか」
「いややわ……誘拐て……でも、こんだけ帰って来おへんってことは何かに巻き込まれてるんやろうし……ただただ心配どす。犯人からの連絡は一切ありませんのや」
身代金の要求は、誘拐犯にとっては絶対条件のようなものだろう。それを要求しないということは、何か他の目的があるということか。彼女の頭脳……あるいは美貌……。仮にこれが誘拐事件だとして、犯人からの連絡が一切ないということは、すでに殺されている可能性も考えられる。しかしそれならなぜ、洞院才華の死体だけが見つからないのか。洞院才華の失踪と佐保、風見が殺害された事件は切り離して考えるべきなのだろうか。
それとも、やはり洞院才華が裏で糸を引いているのだろうか。自作自演? その意図は何だ。何を目的にこんなことをしているのか。
ちょうど誘拐犯からの連絡について話をしている時、洞院恭介が玄関にやって来た。僕の顔を見て、またおまえか、と言うように口を真一文字に結んだ。亭主にも同じく話を訊いたが、成果はなかった。最後の誘拐犯からの連絡について質問しようとした時、来客があった。主人と女将の顔が一度に華やぎ、鴨川を背に立つ男性を迎え入れた。僕はその男性を見てぎょっとした。丹羽裕人だった。
「お取込み中かな?」柔らかい声で京都市議は言った。
いやいや待ってたで、と洞院恭介は気さくに応じた。彼にとって丹羽裕人は甥にあたる。それもあって、他の客とはまた違った物腰の柔らかさがある。僕は思わず、京都市議の名を呼び捨てに呟いていた。
「どうしてここに……」
丹羽裕人は長い首の上に取り付けられた瓜実顔で僕を見下ろしてきた。選挙ポスター通りの七三分けの髪形は、アイドルにしては堅苦しい。相手が年配だから、パーマよりは馴染むのかもしれないが。
「親戚の家に出入りして悪いかな?」
ここは俺の家だ、よそ者が知った口を利くな、と吐き捨てられたような気がした。やはり洞院才華の従兄だ。気に入らない。いつか京都御苑前で見た時のいかにも人の良さそうな笑顔が今はない。未来永劫投票してやらないからな、と僕は心の中で毒づいた。親戚の旅館で羽を伸ばす前に京都市の財政を何とかしろ、と市民の怒りを代弁してやろうかと思った。京都市は数年後には財政破綻すると言われている。建物の高さ制限を一部撤廃するなど、条例の改正などでちょこちょこと手は打たれているが、今の状況を打開できるだけの成果は上がっていない。今もまだ足踏み状態が続いている。京都市民の大きな不安であることは間違いない。そういえば丹羽裕人は、「天皇帰還説」というものを提唱していた。文字通り、天皇陛下に京都へお戻りいただくという政策だ。それに伴い政府機関を京都に移し、さらには大企業が首都移転に追随して本社ビルを京都に移すことで千年の都を永遠の都として再生しようと目論んでいる。京都市議会ではそれなりの賛成を得ているようだが、国会に建白書を送ってもなかなか取り合ってもらえていない。実現の可能性はずいぶんと薄いが、最近少し風向きが変わって来たらしい。早瀬の奮闘もあって富士山噴火の被害への脅威、さらには首都直下型地震が起きた時の対策案として、一部の国会議員に受け入れられつつあるという。ただし、首都移転先が京都である理由について、受け入れられているとはいえないが。早瀬も丹羽も、京都は千年都を守り抜いた実績がある、古都だからだと主張するのだろう。それは確かに首都移転先の理由としては強力なものがある。だが厳密に言えば、平安以前には奈良に都があり、それ以前にも難波や近江に都があった。千年の都と言えば聞こえはいい。しかし古都としての実績は京都だけにあるものではない。それでも京都市の財政破綻を回避する大技として、首都移転を実現させたいと思う市議会の気持ちもわからなくはない。
いつのまにか、丹羽は洞院恭介に案内され、玄関から廊下へと姿を消していた。女将も仕事に戻ろうとしたが、僕はそれを引き留め、丹羽は何か用があって旅館に現れたのかと訊いた。
「まあ、そういうことやろか。一応お客様やし、細かいことは詮索しません。でも用があるから来るんどすえ。そら、そうでっしゃろ」
その用とは何なのか。野々宮の話を思い出し、もしかしたら早瀬との会食ではないかと思った。二人は同じ京都の未来を見ている。相当親しいようだし、今日だって膝を突き合わせていても不思議ではない。旅館を出ると、加茂大橋の前の横断歩道を渡り、また川端通を少し下った。堤防には下りず、歩道から旅館を見張ることにした。
しかし早瀬が現れることなく時間だけが過ぎていき、山裾はいつしか藍色に染まり、見下ろせば鴨川の流れも目視できないようになった。加茂大橋の灯篭にも明かりが灯り、石畳に町家が映える京都らしい妖しげな夜に変貌しようとしていた。日暮れ時が諦め時かな、と僕は思い大学に戻ろうとした。自転車がまだ駐輪場に停めてあるからだ。まさかこんな時間になるとは思っていなかった。
僕は川端通を春日北通まで下ろうとした。だがすぐに足を止めた。女性に声を掛けられたのだ。暗い夜道に、僕は彼女が誰なのか、すぐにはわからなかった。長い張り込みで疲れていたせいもあるかもしれない。それでも僕は、ゆったりとした口調に、顔を見る前にそれが誰であるかを察した。真綾だ。
「何してんのん?」こめかみを覆う金髪を耳に掻き上げながら真綾は言った。夜になると、さすがの金髪も少し錆びついて見える。街灯に照らされれば、瞬く間にその輝きを取り戻すのだが。
事件について調べていたと答えた後、僕は同じことを訊いた。真綾こそ、こんなところで何をしているのか。問い返してすぐに、僕はあっ、と声を上げた。これから夜の蝶に変身するのだろう。僕は何も言わず、祇園のほうを指差した。
意外にも、真綾はかぶりを振った。少し躊躇った後、「この後千代とご飯行くんよ」と答えた。それを聞けば僕もついて来ると思ったのかもしれない。この前は、千代が誕生日だったからダブルブッキングしてしまっただけで、普段は真綾と予定を重ねることはない。僕を嫌っているわけではないだろうけど、女子会に男はいらない。ただの散歩にシュノーケルを持って行くようなものだ。
真綾との食事を千代から聞かされてはいないが、別に逐一報告し合っているわけではない。僕は適当に相槌を打ち、「千代のことよろしく」と言い、立ち去った。真綾とは、ちょうどすれ違う形になった。
11へと続く……