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連載長編小説『別嬪の幻術』12

        12

 入念に準備運動をして、アパートを出た。久しぶりの鴨川ラン。ストレッチだけで足が痛い。筋肉が硬くなっているのがよくわかる。鴨川ランといっても鴨川だけを走るわけではない。僕のアパートから川沿いに出ると、そこはまだ鴨川ではない。高野川という名前だ。高野川が出町柳まで流れて加茂川と合流し、ちょうど下鴨神社の辺りから鴨川へと名前を変える。風見と鴨川ランをしていた時は、いつも鴨川デルタで待ち合わせていた。しかし最後にそうして待ち合わせたのも、三ヶ月前のことだ。夏季休暇中は京都の猛暑も考慮してランニングはしていなかった。
 いつも通り、僕は高野川沿いの堤防をウォーミングアップがてらのろのろとジョギングしながら鴨川デルタまで下った。そこで一度息を整え、もう一度ウォーミングアップをする。待っていても現れないのはわかっているが、風見を探してしまう。彼が鴨川ランに誘ってくれなければ、僕が学生の間に運動をすることはなかっただろう。アキレス腱を伸ばしていると、ふいに風見との会話が蘇って来る。落ち合った後、ストレッチをしながらたわいもない話をいつもしていた。千代のこと、佐保のこと、授業のこと、教授のこと、将来についても話し合っていた。風見は卒業後、プロテインなどスポーツに関するサプリメントの開発に携わるつもりでいた。その将来も、今や摘み取られてしまった。形成外科医になるという佐保の夢も……。
 ストレッチの後、風見がいつもしていたのを真似して、下鴨神社に向いて大きく息を吸った。すぐ近くに茂る糺の森の、澄んだ空気が肺を刺激する。心なしか風で樹木が揺れたように思えた。原生林とは不思議なもので、柄にもなく神秘めいたものを感じた。目を閉じて深呼吸をすると、糺の森の空気と鴨川の流れが肺と聴覚を撫で、心身が浄化されるようだった。深呼吸を二度繰り返すと、僕は最後にもう一度屈伸をして、走り出した。
 加茂大橋をくぐると少しして洞院家の旅館がある。こちらから建物は見えないが、だいたいどの辺りかは熟知している。風見と並走しながら、洞院才華についても話したことがある。ちょうどミスコンの最終審査辺りだっただろうか。佐保の友人だと自慢していた。
 まさに才華の幻術に掛かったよう――高島美佐から聞いた、今堀の言葉が胸に引っ掛かっている。やはり洞院才華はどこかで事件に関わっているに違いない。だがそのどこかがわからない。誰が関わっているのかも……。
 動機のある人物なら数名上げられる。古都大学の学生で言えば、やはり筆頭は船槻敦だ。彼は洞院才華と佐保と同じ医学部で、ゼミでも交流があった。さらには佐保に恋愛感情を抱いており、飲み会で酔わせて肉体関係を持った。それが原因で風見ともトラブルを起こしている。加えて洞院才華の抜きん出た才能に嫉妬しており、時々嫌味を口にしていたという。いずれの事件にも動機があると考えられる人物だ。アリバイもない……。
 次に強い動機を持っているのは高島美佐だと考えている。今日話に応じてはくれたものの、積極性だけで容疑者から外すことはできない。彼女は洞院才華を憎んでいた。それはやはり、今堀を巡る恋愛問題だ。実際のところ、洞院才華が今堀をどのように捉えているかはわからない。しかし今堀は交際の噂を再三に渡り否定している。ただ、仲がいいのは事実だ。そんな二人を面白く思っていないのが高島美佐だった。彼女は洞院才華を幻術使いや魔女などと揶揄しており、今日話を聞いた時も終始「あの女」と呼んでいた。洞院才華と親しい佐保についても魔女の一味とみなしている節があり、佐保の恋人だった風見も、洞院才華に洗脳されているのではと考えていたそうだ。彼女にもアリバイはない。見るからに、同性と親しく接するタイプではない。今堀が相手をしてくれなければ、一人でいることが多いのだ。サークルに顔は出しているが、馴れ合うつもりはないらしい。今堀以上に魅力的な男がいれば話は変わってくるのだろうが……。
 そして最後に洞院才華だ。彼女を容疑者として上げる場合、失踪は自作自演という前提になる。ただ、以前今堀は洞院才華が寺社について訊ねて来たのは彼女の研究に関係していなくもないと言っていた。何かの研究のために夢催眠を使う――それが殺人の実験だとすれば、自作自演の失踪というのもあり得なくはない話だ。事実、佐保は洞院才華から何かを聞かされていた。そして殺されている。その佐保から何かを聞かされていた風見も殺された。二人は共に松尾に足を運び殺されたのだ。ただし、夢催眠を駆使して無差別殺人を行っているわけではないのだろう。もし無差別殺人なら、松尾大社に観光にやって来た観光客が次々と殺害され、僅か数時間で死体の山ができてしまう。化野が近いと言っても、捌き切れない数だ。つまり佐保と風見は理由があって殺されたのだ。だが洞院才華と佐保の間にトラブルはなかった。
 もう一つ考えなくてはならないのが東京で起きた駒場敬一殺害事件だ。この件に関しては京都で起きている事件と関連性があるかは不明だが、二都市の事件に共通の関係者がいるというのは看過できないところがある。その関係者とは長沢徹平だ。
 長沢は洞院才華の高校の同級生で、現在は新都大学法学部に所属している。すでに財務省からの内々定が囁かれていた長沢だが、法学部の大先輩で、その後落ちこぼれた駒場敬一に逆恨みされ、トラブルを抱えていた。アリバイはない。ただ、長沢が真犯人であるセンは薄い。
 二都市で起きた殺人事件はイリシンによる毒殺という共通点を持つ。連続殺人と仮定することはできるだろう。しかしこの事件が連続殺人だと仮定した場合、長沢は京都で起きた二つの事件の日は東京にいて、犯行に及ぶことは不可能だ。
 同様に、二都市の事件で犯行が可能な関係者は多くない。他の容疑者で言えば、高島美佐はまずない。彼女と東京はまったくの無関係だ。失踪している洞院才華については何とも言えない。まあ、彼女自身が手を下しているとは考えにくいが。
 そうなると船槻敦が最有力になってくる。彼は東京出身だからだ。彼は夏季休暇中、実家には帰っていないが東京には帰省している。が、九月二日には京都にいて、犯行は不可能だ。
 事件当日の居場所で言えば、僕も容疑者の一人には入るのかもしれない。偶然にも、九月二日は東京の実家に帰っていた頃だった。それでもアリバイはある。帰省についてきた千代と真綾が証明してくれるだろう。僕達はビデオ通話で話していたから、事件のあった時間家にいたことは疑いようがない。逆に、千代と真綾のアリバイは僕が証明している。二人は明治神宮にいて、永田町で事件を起こせるはずはない。
 野々宮からは早瀬誠衆議院議員の話題も上がったが、関与は不明だ。どうやら古都大学附属病院と京都新薬によって共同開発していた抗癌剤で贈収賄があったらしく、駒場敬一にそれを知られたために殺害したのではと野々宮は仮説を立てていた。さらには皇室関係者が末期癌であり、その治療のためにガシーヌを再び臨床試験の場に引き上げようと画策しているという話もある。そこに天才洞院才華が駆り出され、その情報を知った佐保、そして風見が口封じのために殺された。早瀬は首都移転に積極的で、宮内庁とも繋がっている。……辻褄は合うが証拠がない。すべて仮説に過ぎない。早瀬と親しい者の中に洞院才華の従兄である丹羽裕人がいるというのも興味深い点ではあるが、事件との関連性は見出せない。
 洞院才華の秘密を唯一知る今堀も口を閉ざしており、これ以上話を聞き出すのは難しい。ただ、彼の言葉から答えを導くことはできるかもしれない。今堀は時々、明確な答えではないが、ぼそっと口を滑らせることがあった。
 ――才華が寺社について訊いて来たのは例の実験に関係していると言えなくもない。
 ――彼は松尾大社に捉われ過ぎている。
 ――まさに才華の幻術に掛かったかのよう。
 つまり佐保と風見が殺害された場所には何か意味があるということだ。しかしそれは松尾大社ではない。洞院才華の実験に関わる寺社……そんなものがあるのだろうか。幻術……夢催眠……。
 いつのまにか三条大橋まで下っていた。風見との鴨川ランは、いつも丸太町大橋を過ぎたところで折り返していた。ちょうど川端公園の切れ目だからだ。二條の飛び石をひょこひょこと渡り、今度は対岸を北上する。そして鴨川デルタまで戻ると軽くストレッチを行い、解散していた。僕は一度堤防を上り、三条大橋を渡ると出町柳に向けて走り出した。すでに日は暮れていた。夜の涼しさを感じられるようになったためか、堤防を散歩する人も増えていた。犬の散歩をしている人を避けながら、僕はゆったりと走った。
 ランニングをしている間は、答えを見つけることはできなかった。だがアパートに戻り、シャワーで汗を流した後、スマートフォンで検索を掛けるとすぐに答えを見つけることができた。「神社 幻術」「神社 幻」「神社 夢催眠」「神社 夢」と検索した。ヒットしたのは月読神社だった。ツクヨミノミコトは、夢を司るとされる神だった。さらにはツクヨミを祀る神社は京都では月読神社一社しかない。それに、月読神社の場所だ。月読神社は、松尾大社から上桂へと抜ける路地の先にある。レンタカーを借りて現場の雰囲気を確かめに行った時、僕は確かに月読神社の前を通っていた。印象はあまり残っていない……。だがこれで間違いないはずだ。月読神社は松尾大社の境外摂社とある。つまり月読神社も松尾大社の一部なのだ。赤鳥居の前の駐車場にあったでかでかとした地図……あそこにも月読神社の名前が載っていたかもしれない。
 方角的にも、佐保が向かおうとしていたところに月読神社はある。たぶん日が暮れて月読神社に向かうところを犯人に怪しまれ、殺害されたのだ。風見は月読神社とは真逆の方角で殺されていたが、これはおそらく、犯人が捜査を攪乱しようとして、佐保とは真逆の方角で殺害したのだろう。
 僕は確信を持った。洞院才華は月読神社に何かを隠している。調べたところ、月読神社は子授け、安産祈願で有名な神社らしい。だがこれは関係ないだろう。洞院才華の失踪は夢催眠と関係している。だから今堀に、夢を司る神を祀る神社を訊いたのだ。神社であった理由はわからない。実験成功のための神頼み、あるいは夢催眠を使った殺人に対する懺悔……。
 月読神社……行けば殺されるだろうか。それでも行くしかない。宿敵洞院才華の悪事を暴く、最初で最後のチャンスなのだから。これで死んでも、後悔はないと思える。だが死ぬわけにはいかない。事件を解決するまでは……僕が本物の天才だと証明するまでは。

13へと続く……

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