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連載長編小説『別嬪の幻術』16

        16

 シャワーを浴び、部屋に戻ると野々宮から着信が入っていた。ほんの十分前のことだ。バスタオルを肩にかけ、缶ビールを冷蔵庫から取り出すと、ベランダに出て折り返した。ベランダといってもアパートの二階で、ここから鴨川が見えるわけでも高野川を望めるわけでもない。背の低い建物が所狭しと並んでいる。それだけだ。
 風呂上りには少し肌寒い秋風だが、まだ夏の温みを残している。寒くもなく暑くもない。鈴虫寺に行こうかと考えさせるような心地いい夜だ。そんな風が吹くのと同時に、野々宮は電話に出た。まさに風の便りだな、などと僕は笑ってしまった。
「電話もらってたみたいだな。シャワー浴びてて」
 そうだと思った、と野々宮は言うと、報告が二つあると続けた。報告が二つあるのに、今日は良い報告と悪い報告のどっちから聞くか、選択肢はないんだなと僕は思った。前に電話があった時は、そう訊かれた。ということは、どちらも良い報告か、どちらも悪い報告か。たぶん後者だろうと思った。
「一つは今朝預かった証拠品の検査結果だ。指紋は三人のものが付着していた。一つはおまえ、あとの二つは特定できていないが、そのうちの一つはおそらく洞院才華だ。そしてもう一つが――」
「月読神社の番人と化した連続殺人犯」
「ああ。もしくはテロリスト」
 予想通りの結果に、返す言葉もなかった。苦い液体を喉に流し込み、欄干に缶ビールを置くと、僕はバスタオルで頭を擦った。もう一つの報告を黙って待っていたが、野々宮はなかなか口にしない。それでも僕は沈黙を守った。やがて野々宮は電話線に言葉を寄越せと急かされたように、まるで思いつく言葉を吐き捨てたかのようなかすれた声で、悪い、と謝った。
「何が?」僕は訊いた。
「実は鑑識に検証結果を訊きに行った時、書類のことが上司にばれちまった。こっちの事件が何も進展してないのに鑑識に行く俺を妙に思ったらしい。それで帰り際、おまえに預かった書類を持ってるところを詰問された」
「詰問? パワハラじゃなくてか」
「そんな恐喝みたいなことはされてない。ただ持ってるものは何かと訊かれただけだ。そこで京都の事件とこっちの事件の関係性を調べてることを報告した」
 僕は唇を舐めた。風に晒され、その潤いもすぐに乾く。
「それで、上司は何と?」
「リストと音声データを見て仰天してたよ。警部は顎が外れるほど口開いてたな」
「それは傑作だ。ちびった刑事もいるんじゃないか」
「見た感じ、股間が滲んでる上司はいなかったがな」
 僕は苦笑した。まさか、未曾有のテロが計画されていることを報告する緊迫した場面で上司の股間を確認する余裕などないだろう。野々宮も笑みを漏らした。
「それで、警察はどう動くつもりなんだ?」
「とりあえず、リストにある人物の動きをマークする。何が起きるかはわからないからな。特に尾高柊一郎については、要注意人物として見張りを強化することになった。それから、明日からこっちから刑事が京都に行くことになった」
「へえ、誰が来るんだろう」
「俺だ」
「野々宮が?」
 思わず缶を落としそうになった。これほどの重大事件なのに、たぶん所轄でも一番下っ端の刑事が派遣されるというのか……。当然、京都に来るのは野々宮だけではないのだろうけど。
「不満か?」冗談半分、野々宮は憤りを滲ませつつ言った。僕はむしろ、気心の知れた刑事が出向いてくれて助かるところだ。それを言うと、野々宮は鼻歌を口ずさむようにふふんと鼻を鳴らした。「実はそれが理由で俺が京都に行くことになったんだよ」
「もしかして、僕の名前を出したのかい?」
 いいや、と野々宮は否定した。「名前は出してない。こんな大それたもの見つけておいて、どこでどうやって見つけたのか、上司だって訊かないわけにはいかないだろ? だから京都にいる高校の同級生が、京都で起きてる連続殺人を調べていく中で見つけたものだって言ったんだ。おまえがどれだけ優秀で頭が切れるかもプレゼンしといたよ」
「それはどうも……」
「そっちでは京都府警と連携して捜査することになるが、おまえの力も借りたいと思ってる」
「お役に立てるなら」
「らしくないな、謙遜なんて」
 別に謙遜したわけではなかった。事件解決のための重要な証拠品を見つけ、失踪していた洞院才華を救出した。それで事件は解決するはずだった。だがすっかり潮目が変わってしまった。自分はこれからどこに向かうのか……すでに三人を殺害したテロ組織に太刀打ちなどできるのか……。僕はすでに、組織から命を狙われているかもしれないのだ。こうしてベランダで呑気に晩酌している今も、どこかからレーザーポインターで狙われているかもしれない。まあ、殺されるとすればシャガを使った毒殺なのだろうけど。
「とにかく明日からそっちに行く。役に立とうなんて思わなくていいぜ。むしろ俺を存分に使ってくれればいい。もうこれは古都大学の学生間で起きた事件じゃなくなってる。今までは関係者に話を聞くのも容易かっただろうが、これからはそうはいかない。京都市議に話を聞きに行く伝手はあるか? 衆議院議員に話を聞きに行く伝手はあるか? 単身乗り込んで、話に応じてもらえるか? 俺が一緒なら、どれだってできるぞ」
「国家権力とは偉大だな」
 皮肉を込めて僕は言った。しかし野々宮は自分もその一員であることを良い意味で理解していないようだった。俺なんて下っ端だ。ただの公務員で、権力なんてこれっぽっちも持ち合わせてないよ、と答えた。
 野々宮、誰にでも話を聞けるバッヂを持ってるだけですごい権力なんだよ、と僕は腹の底で言った。明日からよろしくと言い、野々宮は通話を終了した。出張の期間は決まっていないのかもしれない。これから支度をして、明日の朝には京都に出向かなければならないのだ。公務員も大変だな、と僕は笑った。
 今日は疲れた。まだ缶ビールの半分も飲んでいないのに頭が重い。酒が弱いわけではないのだが、やはり疲労だろう。洞院才華を前にしたからかもしれない。部屋に戻り、ビールを煽るとそのまま眠り込んだ。

17へと続く……

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