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【最終回】連載長編小説『赤い糸』17


        17


 足が宙に浮く感覚があった。それでいて妙に落ち着いている。ようやく、帰るべき場所に帰れるような不思議な感じだった。
 俺が殺人犯なんだときちんと話そう。理解されなくても、泉にだけは伝えなくてはならない。泉の幸せを、史緒里の平穏を奪ってしまったのだから。
 取り戻すことなどできないが、自分の口で事実を話すことだけが、たとえ自己満足でも、唯一の誠意の見せ方だと思った。
 昇降口から一段ずつ階段を上っていく。今日から復学する泉が待つ教室へ向かって。
 肩に重みのない足取りが新鮮だった。朝陽に煌々と輝く埃が羽根のように軽々しく見えた。
 すべてを打ち明けたら、その足で出頭しよう。
 修也はアパートを出る時、すでにそう決めていた。もはや学校にいる資格など自分にはないのかもしれない。だが泉に真相を話すのは自分に課せられた使命のように思えるのだ。
 教室は普段と変わらず賑わっている。まだ眠そうな目をしているクラスメイト達が、その表情からはかけ離れた活気ある声でおしゃべりをしていた。窓の外では朝練をしている野球部の掛け声が聞こえていた。
 朝テストの勉強をしている生徒を見て、ふと焦りを覚える。だがはっとして、もう朝から単語帳を開くこともないのだと思う。
 教室に泉はいなかった。まだ登校していないのかと思ったが、すでに鞄が座席にあった。
「泉は?」
 窓から野球部の朝練を眺めていた麻衣に修也は声を掛けた。麻衣は挨拶を返すと首を傾げた。顔に痣が増えていないのでほっとした。
「わからない」
「でも、もう来てるだろ?」
「うん。ちょっとしゃべったんだけど、畑野さんに話があるって言って出て行ったから」
「泉が畑野さんに? 畑野さんが泉にじゃなくて?」
 麻衣は首肯した。「うん。泉から畑野さんに声掛けて連れ出してたけど……」
 嫌な予感がした。
 薫子は史緒里逮捕のきっかけを作った張本人である。傍から見ている限り、泉と薫子の関係性はそれほど悪くはない。薫子は頻繁に見舞いにも行っていたし、その点で言えば泉も感謝しているかもしれない。
 だがそれ以上に、泉は薫子に恨みを抱いているのではないか。栞にされた赤い糸を拾った後、薫子が父親に見せなければ史緒里が殺人の濡れ衣を着せられることもなかったのだ。むろん、泉が自殺未遂事件を起こすこともなかっただろう。
 さらに言えば、薫子は修也に二度告白を試みている。二度目の告白を泉が知っているかはわからない。しかし一度目の公開告白の時に泉は薫子に詰られていた。
 薫子の修也への好意を憎々しく思っているのだとすれば――。
 修也は教室を飛び出して、校舎内を駆け回った。
 今まで泉のほうから薫子に話をすることなど一度もなかった。二人が関わる時はいつも薫子が主動となっていた。それが今日、泉のほうから薫子を連れ出した。
 積もり積もった憎悪から、泉は薫子に何をするつもりだろうか。
 修也は三階を一周した後、一年生の教室が並ぶ二階に下りた。そこを一周し、中庭に出た。中庭は薫子に二度目の告白をされた場所だ。芝生の上にウッドデッキが置かれ、話をするのにこれ以上適した場所はない。
 だがそこに二人はいなかった。
 轟々と風が吹き上げている。修也は空を見上げた。
 今日からあそこに人はいない。
 そう思い至った時、すでに修也の体は動き出していた。全速力で階段を駆け上がり、今日から空っぽになった三年生の教室が並ぶ四階を探し回った。だが人影はなかった。教室はすべて施錠されていたのだ。
 どこにいるんだ……。
 その時、中庭を見下ろす窓に一陣の影が映った。その直後、遠くから石が砕けたような音がした。ほぼ同時に甲高い悲鳴が湧き起った。
 慌てて窓を覗き込むと、うつ伏せで女子生徒が倒れている。窓を開けて凝視すると、それは薫子だった。頭から垂直に落下したようで、額が割れて血が噴き出していた。瞬く間に広がる血だまりが、開いたままの薫子の目にひたひたと染み込んでいる。
 修也は上を見上げた。
「屋上か」
 悍ましい光景に身が竦んだが、立ち止っている場合ではなかった。修也はさらに階段を上って屋上に出た。
 屋上に転落防止のための柵はない。元々人が立ち入らない前提で作られているからだ。屋上を人が歩くのは業者が点検に来る時くらいだろう。その時のために膝くらいの高さの摺が設置されているだけだ。
 その摺の傍で、ブレザーが肩を大きく上下させていた。
 修也は急いで駆け寄り、泉の腕を引いた。放っておけば、彼女は自ら転落してしまうような気がしたのだ。
「何をした?」
 虚ろな目の泉に修也は言った。こんな目をした泉を修也は今まで見たことがない。
「何をしたんだ!」吹き荒ぶ風で声が届かなかったらしく、修也は声を張り上げた。
「わからない……。何が起きたのか、わからない……」
 風の隙間を縫って、か細い泉の声が修也に届いた。
「畑野さんを突き落とした?」
「そう……だと思う」
 ゆっくりと呟くと、泉は手を震わせた。自分のしたことをようやく理解したらしい。
「話があるってここに連れ出したんだろう? 話は? 口論になって揉み合いになった? それか初めから突き落とすつもりだった?」
 泉は首を傾げた。
「わからない」
 しかしそう言った泉の口の端が奇怪に曲がった。まるで悪魔か死神に取り憑かれているかのような恐ろしい笑みだった。
「話はしたのか?」
「してない、と思う」
「泉が突き落としたんだな? ここから」修也は泉の立っていた場所を指差した。薫子の死体が横たわる中庭が騒々しくなっていた。
「話を聞いてくれ」
 修也は泉の肩をがっしりと掴んだ。
「泉のお母さんは殺人犯なんかじゃない」
「どういうこと? 証拠はあるんだよ。今更どうにもならないよ」
「柿本愛斗君を殺したのは俺だった」
「え……。どういうこと……」
「俺が殺した。殺人犯は泉のお母さんじゃなくて俺だったんだ。俺がやったことを隠すためにお父さんが代わりに逮捕されてた。泉のお母さんが逮捕される証拠になった赤い糸は、俺が泉の家に上がった時に落ちたんだと思う。あの赤い糸は十五年前に俺が着てた服の一部なんだ」
 泉は理解が追いつかないようだったが、顔色は変わらなかった。能面のように表情のない顔は、何も考えられないと語っていた。
 ただ一言、「お母さんは、人殺しじゃない……」と確認するように呟いていた。
「そうだ。犯人は俺だった。泉のお母さんの容疑を解く。俺は出頭する」
 史緒里の初公判は来月の予定だった。今はまだ検察に身柄を拘束されている。推定無罪の身だ。今ならまだ犯罪者ではない。
 しかし泉はゆらゆらとかぶりを振った。
「もう遅いよ」
「遅い? 今からでも俺がすべてを話せばお母さんは罪に問われない。すべてを知る俺のお父さんに出廷してもらっても構わない」
「手遅れなの。何もかも……。お母さんが殺人犯じゃなくても、あたしが殺人犯になっちゃったんだから」
 泉は虚空をまっすぐ見据え、いかにも可笑しそうに喉を鳴らした。力ない笑みが空に消えて行く。
「あたしが畑野さんを突き落としたの。そこから、畑野さんが背中を向けている時に。ずっと、畑野さんだけは赦せないと思ってたから。あたしが死に切れなかったのは、あたしのすべてを薙ぎ払った彼女を抹殺することだったんじゃないかって」
「殺意があったのか?」
「殺そうと思ったのは、畑野さんがべらべらと事件の情報を話してくれた時。謝罪があったけど、お母さんが逮捕された事件の詳細を探偵顔で話す不謹慎さに腸が煮えくり返った。正直、お見舞いに来てほしくなかった。顔も見たくなかったんだから……」
 修也はそっと泉の手を握った。冷たい手だった。
「軽蔑したでしょ? あたしのこと……。ああ、でもそれは前からか……。お母さんが逮捕されてから、そうだったもんね」
「いや」と修也は首を捻った。「あの時、確かに俺は泉を軽蔑した。人殺しの娘――その認識が頭の片隅にあって、どうしても泉が血に塗れた人に見えた」
「その通りだよ。あたしは血に塗れてる」
「違うんだ。俺は殺人犯の娘となった泉に壁を感じながらも、泉に対する気持ちとの葛藤が絶えなかった。俺は泉を軽蔑していたかもしれない。でも俺は、確かに泉のことを好きでい続けた。この想いは、お母さんが逮捕される前のものと変わらない。……俺は泉の恋人でいることにプレッシャーを感じて、逃げただけだ。今までずっと、自分の気持ちに嘘を吐いて来た。そうしないと自分を保てないような気がした。でも俺は、結局泉が好きなんだ。その気持ちが、どうしても俺の中から消えなかった」
 泉は喜ぶこともなく、悲嘆に暮れたように顔をしかめた。俯かせた顔が切なく無表情に戻っていく。
「俺達はやっぱり赤い糸で結ばれてるんだ。これは運命の恋だよ」
「あたし達は生きてる世界が違う。前も言ったでしょ」
「どうして?」
 泉は渋面を浮かべた。
「だってあたし殺人犯だよ。殺人犯とは付き合えないでしょ?」
「俺もだ」
 修也は泉の顔を上げさせ、破顔して見せた。頬が華やぐ瞬間、修也の中で迷いが消えた。潔い笑顔を浮かべているだろう、と自分でも思うほどだった。
「俺も殺人犯だ。泉も俺も殺人犯。こんなに不幸で、こんなに幸せなことはない。俺達は同じ世界の住人だ。どうしたってそうなってるんだ、きっと。お互い貧乏で、家に帰ったらお母さんが出払ってる。その上犯すはずのなかった殺人にまで手を染めてしまった。どこを取っても美談にはならない。蔑まれて、罵られて、裁かれる。それでも俺達は同じ世界を共有してる。同じ価値観で、対等に話し合える。きっと落ちる地獄だって同じだよ」
 遠くから喧しいサイレンが響いて来た。当然ながら、誰かが通報したのだろう。もしかすると、捜査班には薫子の父親がいるかもしれない。娘の悲惨な遺体を見て正気を保てるはずがない。たとえ警察官であっても、私情を挟まずにはいられないだろう。
 もしかするとここで射殺されるかもしれない。それくらい恨まれているだろう。
 泉はようやく表情を崩した。微かに笑顔が見えたのだ。
「修也と一緒なら、地獄に落ちてもいいって思える」
「俺もだ」
 修也は立ち上がり、泉に手を差し出した。
「出頭しよう」
「あたしは捕まるけど、修也はどうなの? 今更逮捕になるの?」
「わからない。でももし俺が罪に問われなかったとしても、殺人犯に変わりはない。俺達の間に軽蔑するものはなくなったんだ。俺はいつまでも泉を待ってる」
 泉は薄っすらと瞳を濡らしていた。その表情が、夕方、泉の部屋で告白を受け入れてくれた時の表情と重なった。
 あの時は幸せだったな……。
 ふとそんなことを思い、感慨深くなった。
 十五年前に事件が起きていなければ、幸せな暮らしを送っていたのだろうか、と修也は思った。父が史緒里の身代わりとして逮捕されたと聞いた時からずっと考え、望んできたことだった。
 だがなぜか、今はその暮らしを望まなくなっていた。もし事件のない人生を歩んでいたら、自分は不幸だったに違いない。
 そう断言できた。
 彼女と出会えなかっただろうから。
 立ち上がった泉を修也は抱き寄せた。こうして真正面から抱擁するのは初めてかもしれない。貧相だが馴染み深い泉の華奢な体を修也は手放したくなかった。
 このままずっと、こうして風に吹かれていたかった。しかし行かなければならない。こうしていても警察はやって来る。
「いいのかな……あたし達一緒にいて」
「いいに決まってる。俺達だから一緒にいられるんじゃないか」
「運命だから?」
「そうだよ」修也は泉の頭を撫でながら、穏やかな太陽を見つめていた。「出所する時にはきっと返してもらおう。運命の赤い糸を」
 あれさえあれば二人は生きていける。そんな気がしていた。
「そうだね……」 泉はにっこりと笑った。その笑顔が修也に救いの手を差し伸べてくれる仏の顔のように見えた。

fin

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