連載長編小説『別嬪の幻術』17
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講義に参加する前、結局昨日大学には戻らなかったことを千代に窘められた。洞院才華にはこれから大学に戻ると言ったが、僕は自転車を取りに戻っただけで授業には出なかった。千代の言うように、そろそろ出席日数に余裕がなくなってきている。千代は鋭く、昨日僕が戻らなかったのは何か進展でもあったのだろうと言った。それ以上は何も言って来なかったが。
講義を終え、カフェでハムカツサンドを食べていると野々宮から着信があった。野々宮は今朝京都に入り、松尾署の捜査本部に出向いた後、捜査方針を打ち合わせてから古都大学に来ると言っていた。僕は千代に断りを入れ、カフェを一度出た。野々宮は太陽に黒光りするセダンでやって来た。近くのパーキングを教え、そこに車を停めると野々宮と一緒にカフェに戻った。
千代は怪訝そうに野々宮を見つめていた。野々宮に千代の話をしたことはあるが、こうして顔を合わすのは初めてだ。僕がお互いを紹介したが、千代は敵意剥き出しだ。栄一を捜査に巻き込んでいる男、くらいの悪態を胸の中では吐いているかもしれない。それに千代は、なぜ東京の刑事が京都に派遣されて来たのかということにも困惑しているはずだ。千代には月読神社で重大な証拠品が見つかったことを伝えていない。
「彼、お借りします」と恭しく野々宮が言うと、千代は下唇を噛んだ。拒むわけにもいかず、不満が露骨に顔に出ている。千代は手首のブレスレットに手をやると、ほどほどにしてくださいよ、と釘を刺した。野々宮はすかさずブレスレットを褒め、千代は少し機嫌を直した。僕からのプレゼントだと聞くと、野々宮は肘で僕の脇腹を小突いて来た。
カフェを出ると、野々宮は千代を可愛らしい娘と言った。刑事は彼女の不満げな様子を見逃さなかったらしく、自分が嫌われていないかを必要以上に気にしている。悪いやつじゃないとよろしく伝えておいてくれと野々宮は言った。ここ最近、僕が調査に出払っているから、顔を合わす機会もいつもと比べれば少ない。会話の時間が減り、一緒にいても僕が事件のことで考え込むことが多いから、千代はご機嫌斜めなのだ。そのタイミングで野々宮が来て僕を捜査に駆り出すものだから、千代の神経を逆撫ですることになった可能性はある。だが決して野々宮を嫌な男に分類したわけではない。それを聞くと、野々宮は少し安心したようで、「嫌われたままじゃ結婚式に出られないからな」と軽口を叩いた。刑事の目には、僕達はお似合いに映ったそうだ。千代が僕に惚れている。今プロポーズしてもうまくいくと野々宮は言った。
セダンに乗り込むと、今日はリストに名前のある天皇帰還説支持者に話を聞きに行くと野々宮は言った。今朝松尾署に行っていたはずだから、すでに現場の様子は確認したのかと訊いたが、野々宮はかぶりを振った。「現場は明日見ることになってる。月読神社もな。事件発生直後ならともかく、急いで現場を確認しても手掛かりはもうない。松尾署の鑑識も、現場周辺はしっかり調べたみたいだしな」
「手掛かりはなし?」
「殆どな。見つかってるのは被害者の吐瀉物と雫程度の血痕。毒物そのものや犯人の私物は一切見つかってない。被害者の衣服に指紋も残ってなかった。手袋をしてたんだろう。だからこそ、おまえが見つけた証拠品、あれが重要な意味を持って来るってわけだ。明日も付き合ってもらうからな。一応、証拠を見つけた時の実況見分として立ち会ってもらう」
「明日は土曜だ。学生は休みだよ」
「そんなこと言ってる場合か?」
僕達は笑い合った。湘南乃風でも掛けていれば、これから向かうのは海で決まりだったに違いない。とても殺人事件の聴取に向かう車内とは思えなかった。
昨日持ち帰った空き缶を取り出した。僕と洞院才華の指紋が付着している。持ち帰って照合すれば、茶封筒にあった指紋の一つと一致するに違いない。あとは第三の指紋の持ち主が判明すれば、事件も解決するのだが。洞院才華が軟禁されていたことを野々宮に伝えた。ただ、捜査本部に報告するのは少し待ってほしいと頼んだ。父親に軟禁されていたことが知れると、事態がややこしくなる恐れがあった。野々宮は洞院才華に会って話がしたいと言ったが、僕も居場所はわからない。まさか、僕のアパートに泊めるわけにもいかない。
野々宮は北山通にセダンを停めると、乗金宝商へと入っていった。以前足を運んだ時にまず接客に現れた店員が姿を見せた。野々宮はバッヂ付きの手帳を見せ、乗金久雄に話があると言った。店員はすぐに引き返し、まもなく熊のように大きな体の乗金が現れた。僕を見て、乗金は眉をひそめた。どうやら僕のことを記憶しているらしい。野々宮は、駒場敬一、佐保、風見が殺害された三つの連続殺人事件について簡潔に説明し、その捜査のためにやって来たことを伝えた。乗金はなぜ自分のところに刑事が来るのか理解できないと口にしたが、聴取には素直に応じた。
乗金にはアリバイがあった。そもそも東京には何年も行っていないと供述した。佐保が殺された夜は取引先の社長と花見小路の料亭で食事をし、舞妓遊びに興じていたという。風見が殺害された夜は午後九時を過ぎるまで京都コンサートホールでクラシックコンサートを鑑賞していたという。知人からチケットを譲ってもらったそうだ。松尾大社での犯行は不可能と言ってよかった。続いて三人の被害者との面識について野々宮は訊いたが、風見が一度客として足を運んでくれただけであとの二人とは面識がないと乗金は答えた。僕は春先に起きたという窃盗未遂事件について訊きたかったが、今日は余計な質問をするなと釘を刺されていた。とりあえず、三つの事件のアリバイを確認する。それが今日の任務だと野々宮は言った。下手な質問をして、テロリストを刺激してはならないからだ。僕は口を噤んだ。
だがアリバイの確認だけでも、収穫は十二分と言っていい。今の聴取だけで、乗金が殺人の実行犯でないことはわかった。野々宮から連絡を受けた京都府警の刑事がコンサートホールや花見小路に裏を取りに行っている。僕達は、下鴨本通を下り、下鴨神社を過ぎると葵橋を渡った。河原町今出川を左折し、加茂大橋を渡ると洞院家の旅館に入った。
野々宮は同じように洞院恭介に三つの事件のアリバイを確認した。洞院恭介はいずれの日も旅館に出ており、その日の客に確認してもらえば証言を得られるだろうと言った。女将はその場で証言しており、事件のあった日の宿泊台帳を持ち出して来て、そこに書かれているのは間違いなく亭主の筆跡であると説明した。洞院恭介は事件とは無関係だろう。洞院才華も、父は会合場所を提供していただけだと話していた。その話を信用するのであれば、リストに名前が載っていたのもほんのおまけと言っていい。洞院恭介が連続殺人事件のことをどれだけ把握しているかは知らないが、犯行が不可能であることくらいは察しがつく。旅館に休みはない。それも家族経営で、従業員が多いわけでもないのだから。
「才華は今どこにいるんどっしゃろ?」洞院恭介は僕を見て訊いた。僕も知らない。友人の家に匿ってもらうと言っていたのを聞いただけだ。どこの誰の家に身を寄せているかはまるで想像がつかない。彼女の交友関係には詳しくない。ただ、医学部では誰からも慕われる聖女のような存在だったから、誰の家に身を寄せていてもおかしくはない。知っていたとしても、事件が解決するまでは決して教えないが。
旅館を出ると、河原町通を下り、京都市役所に向かった。本庁舎の京都市会で丹羽裕人を呼び出した。野々宮は同じようにアリバイを確認した。丹羽にはアリバイがなかった。残業の後、中京の自宅にまっすぐ帰ったというが、その後松尾に出向き犯行に及ぶことは可能だ。ただ東京の事件に関与することはできない。駒場敬一が殺害された時間帯、丹羽は市役所にいたからだ。他の天皇帰還説支持者である京都市議からも話を聞いたが、誰も彼も丹羽と似通った供述になった。
東京と京都の事件は別だと考えるべきなのだろうか。ただ音声データがある以上、関連した事件であることは間違いない。考えられるとすれば、早瀬や尾高ら東京で生活する支持者が駒場敬一を殺害し、丹羽をはじめとする京都在住の支持者が佐保と風見を殺害した。そして殺害方法は揃えることにした……。なぜ毒殺なのか。なぜシャガなのか。なぜ犯人は、月読神社を突き止めながら証拠品を持ち去らず、その証拠を取りに来た者を殺すのか。
わからない。だがその犯人の行動とシャガの持つ「反抗」「抵抗」という花言葉――ここには繋がるところがある。幹部の中で発言力が弱くなっている乗金……だが乗金にはアリバイがあった。裏が取れたという報告がすでに野々宮の元に入っていた。あるいは乗金の指示で、下っ端支持者が実行犯になっているのだろうか。その可能性はなくはない。だが三十人を超える支持者の中で、その一人を、もしくは二人を断定しなくてはならないのか。殺人を指示されて実行できる人間……そんな人間がいるだろうか。最有力の可能性として考えられるのは、夢催眠によるマインドコントロールで殺人者に改造された人間がいるということ。その人物は組織にとってただの暗殺剣であり、折れたら捨てられるだけの駒に過ぎない。
洞院才華は言っていた。自分の研究が悪用されるのは耐えられないと。だから告発しようと思ったのだと。彼女は知っていたのではないか。駒場敬一が自分の術によって殺害されたことを。すでに多くの者が催眠状態にあるのだから、あり得ない話ではないはずだ。ただ殺人犯を仕立て上げるとなると、論文を読んだだけの素人にできることなのかという疑問も生まれる。洞院才華は一連の殺人事件に本当に関わっていないのだろうか。
これから野々宮は松尾署に戻るそうだ。僕はこのまま帰宅する。大学まで送ろうかと言われたが、僕は断った。歩きながら、頭の中を整理しようと思った。だが何を考えていても、洞院才華をどう扱えばいいのかという壁にぶち当たる。彼女は白なのか黒なのか、それすらわからない。
一度考えるのをやめ、少し柔らかくなった夕方の風に打たれた時、洞院才華の姿を認めた。気がつくと、左手には京都御苑があった。それで寺町通にいると認識した。東側駐車場の入り口が少し先に見える。洞院才華を見たのは、寺町通から路地に折れた先だった。一瞬、思考が停止した。
どういうことだ――。
立ち止ってしまうと、僕は何をすればいいのか、どこに向かおうとしていたのかがわからなくなった。見慣れたはずの景観が視界の中で歪んでいく。薄い涙で目が覆われ、瞬きを忘れていたことに気づいた。石垣に腰を下ろし、背中にちくちくと刺さる生垣を感じながら、両手で顔を覆った。両手を覆う指の隙間から路地の先を見た。今見たのは間違いなく洞院才華だった。彼女は昨日、友人の家に身を寄せると言った。信頼できる友人の家に行くと。寺町通から路地に入った先に誰の自宅があるかを僕はよく知っていた。千代の実家だ。しかし千代は洞院才華と面識はないはずだ。僕が日頃目の敵にしているから知っている――そして千代は唯一、洞院才華ではなく僕が天才だと認めてくれていた。同時に、僕を差し置いて天才の名を欲しいままにする彼女を軽蔑してもいた。まさか、千代の実家に身を寄せているはずはない。信頼できる友人が千代であるはずはない。
だが今見たものは何だというのか……。千代以外の古都大生の家が同じ路地に並んでいるのか? そんな話を千代から聞いたことはない。千代は僕を、ずっと欺いていたとでもいうのか?
18へと続く……