見出し画像

私と母

気持ちと事実の整理のため、これまでに私と母の間にあったモヤっとする出来事を書いていこうと思います。

幼少期〜小学生の頃

・私が3歳になった頃、弟が産まれました。何かと「お姉ちゃんなんだから」と順番を後回しにされたことを今も覚えています。それでも弟が大切な存在であることに変わりはなかったし、自分は我慢しなければならないのだと思っていました。

・小学1年生の冬、その当時よく遊んでいた子の1人から仲間外れにされるようになりました。最終的に母が介入してくれたとはいえ、「やり返すくらい強くなりなさいよ!」と言われたのは辛かったなぁ。

・小学3年生のある日、授業参観日に私はどうしてもトイレに行きたくなってしまって。でも先生が怖くて言い出せなくて、授業中ずっと足をバタバタしていました。帰ってから「あれ何!?他のお母さんたち全員見てたよ!?恥ずかしい!!!」とリビングで叱られ、ついでに蹴られたのは忘れられない。

・リコーダーのテストがあるからと家で練習していた時。1人でやっているところに母が来て、教科書を横から見ながら「違う!」「もっと指ちゃんと力入れて!!」と強い口調で言うものだから私はすごく不本意でした(自分でやりたかったんです、方法が遠回りでも)。そしてそれを見た母が激怒。2時間以上私に正座をさせ、懇々と説教を続けました。ようやく終わった頃には足の感覚なんてなくなっていて、まともに歩けやしません。母はそれを冷たい目で睨んで「ちゃんと歩きなさいよ」と一言。

・テストは基本的に満点以外許さなかった母。私が99点を取った時は間違った1問が何だったのか、どうして間違えたのか、なぜ間違えるような行動を取ったのか、次に満点を取るには自分に何が足りないのかを徹底的に問い詰めました。90点を取った日には「80点代の方が近いじゃない!!こんな点数取って恥ずかしい!!」と当たりが強くなるから、1点でも点数の引かれたテストの答案を持って帰るのが怖かったです。

・小学6年生になる年、近所に塾ができました。私が泣いて「あと一年は待って」と頼み込んだことも虚しく、母は私を強制的に塾に入れました。

中学生の頃

・中学校のテストでは90点代後半のみ許されるようになりました。間違いが1問か2問であればセーフ。3問以上間違って95点を切れば、上に書いたような詰問が待ち受けています。おかげで5教科の合計点は460点代後半を常にキープしていました。

・中学生の頃は母がよく勉強を見ていました。間違うと怒られる、点数が芳しくないとため息をつかれる。母が隣に座ると緊張で手が冷たくなったのを思い出します。今も母が隣に来て手元を見るのは怖い。

・勉強の休憩として父のお下がりのスマホで音楽を聴いていた時、母がノック無しで部屋に入ってきて「勉強サボって音楽聴いたりするな!!!」と私を怒鳴りました。ストレスで過呼吸になって床に倒れ込んだ私に、母は「演技ならもう少し上手くやれば?」と言い捨ててスマホとイヤホンを没収し、部屋を出て行きました。

・受験高校の過去問を解くなど、勉強以外では部屋のドアを閉めることは禁じられていました。休憩は3時間以上経たないと許されなかったから、部屋の前の手すりに布団をかけて目隠しにしていました。「何隠してるの?言えないことしてるんじゃないでしょうね」と言われてからは出来なくなったけれど。

・過去問を解いていたある日、合格ラインまであと数点というところで、あまりに悔しくて泣きました。そんな私に母は「泣くくらいなら過去問を破るくらいでやれ!!!泣くなんて情けない!!!私はそれくらいやった!!!」と怒鳴りました。

高校生の頃

・スマホを持ち始めた頃、LINEのメッセージを私に無断で開いて読んでいました。「スマホ本体のパスワードは、私がいつでも見られるようにつけたらダメ」と言われていたのもこの頃。「子どものプライバシーはどこにあるの?」と訊くと、「は?子どもにプライバシーなんてある訳ないやろ」という返答が。

・体調不良で学校に行けなくなった私に「なんで学校行きたくないの?」と問い詰め、挙げ句の果てに「そんなに言いたくないなら私が要らないってことだろ!」と怒鳴って家を飛び出しました。その後、母は祖母に泣きながら電話をかけたようで、祖母が家に来て私の足を杖で叩いたり怒鳴りつけたりしました。

・気持ちが常に憂鬱であることや家の居心地が良くないことを話せないなら、と高校の養護教諭に話をすると、私の意思を無視する形で母を学校に呼び出されました。見せかけの“話し合い”が行われ後、帰宅してからは「どうして家族の話を赤の他人にした?」「裏切り者が」と叱責の嵐。

・受験生になって予備校に通っていた頃、近くのコンビニですれ違った人に脚を触られました。ショックで電車に乗るのが怖くなった私に、母は「みんな経験するんだから。何大袈裟にしてるの」と呆れた様子でした。その後もフォローはしてもらえる事なく終わりました。

大学生になってから

・のめり込んだドラマのキャストさんたちが着ていた衣装がどうしても欲しくて、初めて誰にも相談せずネットで注文しました。届いたら受け取っていてほしいと事後報告すると、「そんなモノにそこまでの価値はない」「無駄遣いも甚だしい」「せっかく渡してやってる小遣いをそんなモノに使って」と繰り返す日々。届いてからもしばらくは毎日のように言い続けていました。

・毎月の薬で起きていられない私に、「私の方が」「私だって」と言うほか、「そんなのじゃ看護師やっていけないよ」とも言うようになりました。どんなに多くの症状が出ても、自分の部屋を出たら口に出さないようになりました。聞く人がいなければ話しても意味がないというもの。ネットにしか書き込まなくなりました。

・父からの性被害(肩を無理に抱き寄せられる、抵抗できない時に背中や腰・お尻を撫でまわされる、顔を近づけてキスを迫られる、etc)を「愛情表現だから許してあげて」と止めることはありませんでした。今もフラッシュバックに苦しめられることがあります。

・家族で一番背が低いこと、童顔、決して華奢とは言えない体型を揶揄されることが増えました。嫌がっても聞き入れられることはなく、「冗談も通じない人間は社会でやっていけないよ」と言われる始末。

・『弟は繊細だから気をつけようと思うけど、優雨は図太いから多少は何を言ってもいいと思ってる』と、私に向かって言い放ちました。その場は曖昧に笑って誤魔化しましたが、忘れることはないと思います。

・私が外出する前は必ず、服装やメイクなどを一通りチェックされます。母の気に入らないところがあれば手直しするまで指摘が入り、その合間に身体的特徴を嗤われることも。もちろん、反抗は認められません。

・外出する用事があると伝えていても、カレンダーに書いていても、母が覚えていなければ私が言っていないということになります。どれだけ物的証拠があっても。

・母の思ったことが絶対的な正義になります。マスクが原因である私の肌荒れも、日焼け止めのせいだと母が思えば日焼け止め禁止。母が化学物質過敏症の記事を読んだ日は、大好きな香水やお気に入りのメイクや愛用するヘアオイル禁止。


ここまで長々と、ありがとうございました。私が今まで書いていた日記が役に立ちました。
これらは私の記憶に強く焼き付けられた出来事です。そしてここに書ききれなかったこともあります。
備忘録のようなものですが、「あるある!」「自分はもっと大変」「やっぱり自分の環境は何かおかしいんだ」など心が軽くなる手助けになれば幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?