人生を変えたサイコパスおばさん
「あのね。実は・・・」
なんでもない一日が終わりかけた、ある夕方の車内。会社からの帰宅途中に、妻からの電話を受けた僕は、一人で小さくガッツポーズをした。
27歳。僕はついに父親になったのだ。
息子と過ごす未来を想像すると、ワクワクとソワソワが止まらなかった。
「息子と一緒に、どんなところに旅行に行こうかな」
「何をして一緒に遊ぼうかな」
「勉強を教える日が来るのかな」
未来に対してのポジティブな妄想が一気に広がる。
でも、それと同時に「お金」の不安も生まれた。
当時の僕は、ケアマネジャー(介護職)として働いていて、手取りは約20万円ほど。
子どもと過ごす「自由な未来」を想像すると、頼りなさを感じる収入だった。
「よし!もっと仕事を頑張って、昇進しよう!」
そう決意した。
・・・はずだった。
翌年。僕は、無職になった。
医師から「うつ症状」という診断書をもらってしまうほどに、心が病んでしまったからだ。
会社に行こうとするだけで、足が震えて立っていられないほどの恐怖を感じる。
その原因は、職場で「サイコパスおばさん」というあだ名をつけられていた、お局さんからの“いじめ”だった。
「生後半年の長男」+「35年ローンで建てた新築」を抱えたまま、僕は働けなくなってしまったのだ。
喜びから一転して。突然、人生の「どん底」に叩きつけられてしまった。
サイコパスおばさんの脅威
当時、僕が働いていた職場は、できたばかりの新しい会社だった。
「素敵なサービスを提供していこう!」という、前向きで明るい雰囲気がある穏やかな職場。
ーーーはじめの頃は、そう思っていた。
でも、僕が入社してから半年もたたないうちに、うつ症状になり会社を辞める人が続出したのだ。
そして、会社を去っていく人たちは、皆んな口を揃えて僕に、あるメッセージを残していった。
「サイコパスおばさんには、気をつけて」と。
うつ症状になり、会社を去っていく人たちは、全員がサイコパスおばさんからの陰湿ないじめを受けた被害者たちだった。
サイコパスおばさんからのいじめは、突然はじまる。
「〇〇さんのことどう思う?」が、次のターゲットが決まった合図だった。
だから、サイコパスおばさんから目をつけられないようにと、ごきげん取りをしながら毎日を過ごした。
サイコパスおばさんが右を向けと言ったら、右を向いたし、左を向けと言ったら、左を向くように心がけた。
そんなことを繰り返しているうちに、他の職員から「なんだか、あなたも、サイコパスおばさんに似てきたね」なんて言われるようになった。
その一言が、ズキッと胸に刺さった。
「(僕は、誰のために生きているのだろうか?本当にこのままで良いのだろうか?)」
処世術として、サイコパスおばさんと仲良くするようにしていたが、僕の本心は、サイコパスおばさんから離れたくて仕方がなかった。
それからというもの、少しずつサイコパスおばさんの意見に流されないように心がけるようになった。僕は僕の人生を歩みたいと思ったからだ。
でも、それが良くなかった。
僕はついに「次のターゲット」になってしまった。
まず、社内の情報が、僕にだけ回ってこないようになった。
その結果、ミスをすると「そんなこともできないの?ちゃんと調べなさいよ」と圧をかけられた。
そして、なぜかサイコパスおばさんは、社長とだけは仲良しだったから、社長からも冷たい対応をされるようになった。
「あの人が困るようなことだけは、するな」と社長からも圧をかけられた。
誤解を解こうにも、社長の信用はお局さんにだけ向けられていたから、僕の意見は聞き入れてもらえなかった。
この流れは、サイコパスおばさんのいつものやり口だ。
こうして、ターゲット以外の人間を巻き込みながら、悪口を言いふらして、ターゲットにした人間をあっという間に「悪者」に仕上げてしまう。
すごい才能だと思った。
とはいえ、もちろん僕にも味方はたくさんいた。だから仲間たちと一緒に戦おうとはしたが、社長を味方につけたサイコパスおばさんには、到底太刀打ちできなかった。
そうこうしているうちに、僕は職場に行こうとするだけで、足が震え、立っていることすらままならないほどになってしまった。
タバコの本数が増え、毎日、浴びるように酒を飲んだ。
アルコールで、嫌なことをうやむやにしたまま、気絶するように眠りにつく。
そして、また朝が来る。朝日を見るのが怖かった。
「働く」ということが散々嫌になってしまった僕は、ついに自分の「異常」を認めて、病院に行くことを決意した。
診断の結果は、案の定「うつ症状」という診断だった。
数日後。僕は、診断書と一緒に退職届を会社に提出した。
生後半年の息子がいたし、35年ローンで建てたばかりの新築があったけど、そのときの僕は、もうどうして良いか、さっぱりわからなくなっていた。
とにかく、サイコパスおばさんの脅威から逃げたかった。
先が見えない恐怖による暗闇の中。愛する息子の笑顔だけが希望の光に見えた。
さあ、人生の大逆転をはじめよう
「息子のためにも、絶対に這い上がってみせる」
会社を辞めた僕は、「ブログ」を書き始めた。
ブログという手段を選んだ理由は、「会社に行かなくても良いから」という“逃げ”からの気持ちだったと思う。
もう、あんな想いは二度としたくなかった。
でも、会社を辞めて、再就職もせずにブログを書きはじめた僕に対して、周囲からは心配の声が上がった。
それでも、当時の僕は何かに取り憑かれたかのように、ひたすらブログを書き続けた。
なぜか「ブログしかない」と思っていたからだ。
その結果、徐々に稼げるようになっていき、なんと1年後には、高級車が買えるくらいの月収を手にできるほどになった。
どうやら僕は、会社員ではない働き方の方が向いているタイプの人間だったらしい。
今では、在宅で仕事をしながら、半分主夫のような暮らしをして、愛する息子の側で働けるようになった。
控えめに言っても、最高に幸せな毎日だ。
当然ながら、仕事で出会う人の中には、もうサイコパスおばさんのような人物は登場しない。
大好きなお客様に囲まれて、幸せな気持ちで「働く」ができている。
年収も、会社員の頃の何倍にもなった。
だから、今振り返ってみると、サイコパスおばさんには、感謝してもしきれないほどの気持ちがある。
だって、あのとき、サイコパスおばさんからのいじめを受けていなかったら、きっと僕はまだ、自分には合わない「会社員」という働き方をしていたと思うから。
きっと、サイコパスおばさんとの出会いは、僕にとって「人生からのギフト」だったのだと思う。
「人生を変えたい」
と長らく思ってはいたけれど、今一歩踏み出せない自分がいた。
でも、サイコパスおばさんのおかげで、人生を激変させることができたのだから。
まあ、「どうせ背中を押すなら、もう少し優しく押して欲しかった」というのが本音だけど。笑
喜劇王と呼ばれたチャップリンの名言の中に、こんな言葉がある。
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」
サイコパスおばさんとのエピソードを思い出す度に、僕は、チャップリンのこの言葉を思い出す。
もし、今のあなたが「悲劇」の渦中にいるなら、それは紛れもなく悲劇であり、辛い状況だろう。
でも、もう少しだけ、もう少しだけ、歩み続けてみてほしい。
その悲劇が「喜劇」だったと思える日は、そう遠くないはずだから。
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