予備校、結婚、そして鉄道
ある予備校の代表から「正社員になってくれ」と口説かれている。
家賃補助もつけるし、労働条件の交渉にも応てくれると言う。
ありがたい話だ。働いていてやりがいもある。
悪くないかもしれない、そう思った。
しかし、その後の代表の発言によって、揺れ動いていた私の心はただちに静止することとなる。
これをカエル化現象というのだろうか。
代表に抱いていた信頼は、突然どこかへ消え去った。
正社員。結婚。女性。
並列された3つの単語。
なんだか急に、気持ち悪くなってきた。
気がつけば、口が動いていた。
鳩が豆鉄砲をくらう、とは、きっとあんな顔なのだろう。代表は、要領を得ない表情でこちらを見つめていた。
私は続ける。
私はとても怖い顔をしていたと思う。
代表が答える。
私は、言葉を遮った。
私の目の前に座る小さな男性は、まずいことをした、そんな顔で、かける言葉を探していた。
代表は、やや前のめりになった。
一息置いて、言葉を続ける。
次がら次へと言葉がでてきたものの、結局何が言いたいのかについては、自分でも整理しきれなくなっていた。
あれは、何一つ理解できていなさそうな顔つきだった。
それには納得ができる。ただ、その幸せの実現手段が、どうして”正社員”である必要があるのか、が疑問なのだ。しかしそれ以上、何も話したくなくなった。
正社員になること。結婚すること。子どもを持つこと。
それは、本当に正しい選択なのだろうか。
そうやって、あーだこーだ理屈をつけて考えることは、目の前の課題から目を背けているだけなのだろうか。
仮にそうだとして、その「課題」は誰に課されたものなのだろうか。なぜ、それを果たす義務があるのだろうか。
結局、同じくあーだーこーだ理屈をつけて、他人が理想とする「幸せ」を追っているだけなではないか。
自分の人生は、自分で責任を負うべきだ。そして、自分の「幸せ」は、必ずしも他人のそれとは重ならない。
もう一度問いたい。
正社員になること。結婚すること。子どもを持つこと。
それは、本当に正しい選択なのだろうか。
私が理想とする家族の在り方は、京王線と中央線のような関係なのかもしれない。帰りの電車の中で、ふとそんな考えが浮かんできた。
2つの鉄道は、どちらも東京都内を東西に結ぶ路線である。どちらも新宿と八王子を結んでいる。その先の高尾でも接続している。しかし、そこに辿り着くまでの道のりは異なる。京王線は、世田谷区・調布市・府中市を経由するのに対して、中央線はより北側の中野区・杉並区・三鷹市などを通過していく。車内から見える景色の色合いも大きく異なる。にもかかわらず、やがて両者は再び顔を合わせることになる。それぞれが我が道を進んでいるように見えながらも、目指す場所は同じなのだ。一見すると、2つの線は平行で、決して交わることがないようにも思える。けれど、両線は少しずつ角度を変化させながら伸びている。そして、接する。その道すがらは、「孤独」なものに思えるかもしれない。けれども相手は、決して遠くない場所を走っている。見えない相手の息吹は、途中で出会う南武線や多摩モノレールが伝えてくれる。決して、孤独ではない。いつか必ず、2つの線は重なる。
ずっと隣同士で人生を過ごす、そんな山手線と京浜東北線のような関係性も悪くはないと思う。ただ、接する時間が長くなればなるほど、「私」が薄れていくような気がする。品川-田端間で移動する乗客にとって、緑の電車に乗るか、水色の電車に乗るか、そんなことは大した問題ではないように思える。結婚というのは、相手と同化することでもなければ、従属するためにあるものではないと思っている。分割不可能(indivisual)な個人が、それぞれの個性を高め合うために築くべき関係性、なのではないか。
気がつくと、もう調布についていた。
橋本からやってきた快速が3番線に入線する。
特急を後にし、快速に乗り換える。
正社員にならなければいけない。
結婚しなければいけない。
夫は妻に安定した生活を”させる”。
結婚したら子どもを持つ。
子どもの笑顔を見るのが1番の幸せ。
そうした考えも、特急の中に置いてきた。
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