予備校、結婚、そして鉄道

ある予備校の代表から「正社員になってくれ」と口説かれている。
家賃補助もつけるし、労働条件の交渉にも応てくれると言う。

ありがたい話だ。働いていてやりがいもある。
悪くないかもしれない、そう思った。

しかし、その後の代表の発言によって、揺れ動いていた私の心はただちに静止することとなる。

「20代にもなれば、結婚についても考えるでしょう。堀くんはモテるとは思うけど、やっぱり女性は正社員の人を好むと思うんです。その意味でも、正社員になった方がいいよ。」

これをカエル化現象というのだろうか。
代表に抱いていた信頼は、突然どこかへ消え去った。

正社員。結婚。女性。
並列された3つの単語。
なんだか急に、気持ち悪くなってきた。

気がつけば、口が動いていた。

「いったい、誰の話をしているんですか。」

鳩が豆鉄砲をくらう、とは、きっとあんな顔なのだろう。代表は、要領を得ない表情でこちらを見つめていた。

私は続ける。

「正社員の人を好む女性って、誰の話をしているんですか。」

私はとても怖い顔をしていたと思う。

代表が答える。

「それは、堀くんが将来お付き合いする、、」

「それは一体誰のことですか。」

私は、言葉を遮った。

「私は果たして結婚に興味があるのでしょうか。仮に興味があったとして、私はどうして、”正社員”を好きになる女性を選ぶのでしょうか。また、どうして女性を好きになるのでしょいか。」


私の目の前に座る小さな男性は、まずいことをした、そんな顔で、かける言葉を探していた。

「堀くんは、結婚に興味がないの」

「興味がないわけではありません。ただ少なくとも、”正社員”を好きになる相手とは結婚しないことは確かです」

「そうはいっても、やっぱり女性は正社員として安定した生活をさせてくれる男性を好むとは思うよ」

代表は、やや前のめりになった。

「”させてくれる”という表現は適切ではないと思います。結婚というのは、お互いが対等な関係になることではないのですか。片方が”させる”のではなく、お互いに“なる”ものではないのですか」

一息置いて、言葉を続ける。

「安定という価値観についても、疑問があります。収入と雇用の”安定”は、必ずしも夫婦関係の”安定”には繋がらないと思います。正社員になるということは、パートナーと過ごせる時間を減らすということでもあります。解釈によっては、会社という”浮気相手”を持つという見方もできます。」

次がら次へと言葉がでてきたものの、結局何が言いたいのかについては、自分でも整理しきれなくなっていた。

「いや、とはいえ、子供を育てるにはお金がかかるのは想像がつくよね。」

「子ども、、ですか。確かに子どもを持つならば、お金が必要でしょう。経済的な”安定”は不可欠です。ですが、結婚=子を持つことなのでしょうか。子どもを持たず、2人でそれぞれの人生を謳歌するという生き方は認められないでしょうか。」

「そういう生き方もありだとは思うけど、やっぱり女性は、こどもを産みたいし、だからこそ正社員の夫を欲しいと思うよ」

「代表は、私よりも人生経験が長いですから、学ぶべき点が多いことは確かです。ーですが、女性の価値観の全てを理解されているとは思いません。代表のおっしゃる”女性”というのは、実態のない偶像です。偶像に媚びて自分の生き方を決めることは、自分の人生に対して、あまりにも無責任なことだと思います」

「うーん、なるほど、君の意見はよく分かった。」

あれは、何一つ理解できていなさそうな顔つきだった。

「いろんな生き方があるもんなぁ。でもやっぱり俺は、愛する妻に恵まれて、子どもの笑顔を見るのが1番幸せだと思うなぁ。」


それには納得ができる。ただ、その幸せの実現手段が、どうして”正社員”である必要があるのか、が疑問なのだ。しかしそれ以上、何も話したくなくなった。

「確かにそうですね。ただ、正社員の話については、少し考え直させてください。」

正社員になること。結婚すること。子どもを持つこと。
それは、本当に正しい選択なのだろうか。

そうやって、あーだこーだ理屈をつけて考えることは、目の前の課題から目を背けているだけなのだろうか。

仮にそうだとして、その「課題」は誰に課されたものなのだろうか。なぜ、それを果たす義務があるのだろうか。

結局、同じくあーだーこーだ理屈をつけて、他人が理想とする「幸せ」を追っているだけなではないか。


自分の人生は、自分で責任を負うべきだ。そして、自分の「幸せ」は、必ずしも他人のそれとは重ならない。

もう一度問いたい。

正社員になること。結婚すること。子どもを持つこと。
それは、本当に正しい選択なのだろうか。

私が理想とする家族の在り方は、京王線と中央線のような関係なのかもしれない。帰りの電車の中で、ふとそんな考えが浮かんできた。

2つの鉄道は、どちらも東京都内を東西に結ぶ路線である。どちらも新宿と八王子を結んでいる。その先の高尾でも接続している。しかし、そこに辿り着くまでの道のりは異なる。京王線は、世田谷区・調布市・府中市を経由するのに対して、中央線はより北側の中野区・杉並区・三鷹市などを通過していく。車内から見える景色の色合いも大きく異なる。にもかかわらず、やがて両者は再び顔を合わせることになる。それぞれが我が道を進んでいるように見えながらも、目指す場所は同じなのだ。一見すると、2つの線は平行で、決して交わることがないようにも思える。けれど、両線は少しずつ角度を変化させながら伸びている。そして、接する。その道すがらは、「孤独」なものに思えるかもしれない。けれども相手は、決して遠くない場所を走っている。見えない相手の息吹は、途中で出会う南武線や多摩モノレールが伝えてくれる。決して、孤独ではない。いつか必ず、2つの線は重なる。

ずっと隣同士で人生を過ごす、そんな山手線と京浜東北線のような関係性も悪くはないと思う。ただ、接する時間が長くなればなるほど、「私」が薄れていくような気がする。品川-田端間で移動する乗客にとって、緑の電車に乗るか、水色の電車に乗るか、そんなことは大した問題ではないように思える。結婚というのは、相手と同化することでもなければ、従属するためにあるものではないと思っている。分割不可能(indivisual)な個人が、それぞれの個性を高め合うために築くべき関係性、なのではないか。

気がつくと、もう調布についていた。
橋本からやってきた快速が3番線に入線する。
特急を後にし、快速に乗り換える。

正社員にならなければいけない。
結婚しなければいけない。
夫は妻に安定した生活を”させる”。
結婚したら子どもを持つ。
子どもの笑顔を見るのが1番の幸せ。

そうした考えも、特急の中に置いてきた。

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