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Z世代から大きなゆとり世代へ

 効率化、合理化、スマート化といった効率を高めること、合理性を追求する動きはビジネスはもちろん、様々なところで加速している。YouTubeや動画サービスを倍速やスキップしながら観たり、まるで論文のようにアブストラクトから始まるブログ記事。どうやらそれほど、現代人には時間がないらしい。

 さらにそれに拍車をかけるように、昨今のリモートワークはそうした動きを加速させる方向に動いていると思う。テキストでは、「簡潔に、分かりやすく」がも求められ、発言も「結論のみ」が重視される。これは僕が身を置く状況下のみに限るのかもしれない。が、別に特定の何かを言いたいことはあるけど普段言えないからと言って、この場で執拗に批判するつもりはない。ただ僕は、「ゆとり」を大切にし、他者のゆとりを大切にできる人でありたい。

 ここで言うゆとりの概念は、前者の生産性と逆光する動きではない。どの方向で生産性を高めるか?の思想としての概念として考えたい。この社会において生産性向上の必要性についての議論は何十年にも渡ってされていることなのでここで敢えてすることもない。その生産性を高めるためにゆとりにできることがあるという意見だ。例えば、意思決定をしなければいけないミーティングで確実に行われなければいけないことはその議題となっている問いに対する組織としての決定を行うことだろう。その意思決定過程において、参加者それぞれの意見がテーブルに出されていることが必要だ。この「意見が出る」という状態は組織における「ゆとり」こそが生むものだと思う。目標の数値に追われている上司を前に、その意見が有益かそうでないか、或いは意見がまとまっているかいないかを考えながら発言することは必ずしも良い結果を生まない。結局伝えたいことが伝わらなかったり、場合によっては「つまり?」と理解しようとしない態度をとられてしまう。組織内での信頼関係とも似ているし、どちらも必要な要素であるが、ゆとりはより、その根源的なものを指している。ゆとり故の信頼であり、それ故の結果である。

 他者に自己を理解しようとしてもらうこと、相互の理解を促進しようとすることも、「ゆとり」なしには実現しないだろう。作られたナラティブではそれは実現しない。必要なのはゆとりであり、それは立場の強い人の意図のみでは機能しない。なぜなら、「自己を語ること」は自己の認識を自己という人格によっての解釈をストーリーとして語ることであると同時に、他者への理解を求める行動であるからである。もちろん、聞き手の印象をある程度は操作することができるが、それでは理解はされない。他者理解とは、その他者が演じる「他者」を観察し、自身で「他者」というペルソナを再構築することである。決して、他者の「こう思われたい」を文字通り理解しようとする/理解することではない。必要なのは、そうした他者にどう認識されるか?をある程度意識しながらも自分が話したいように自身について語る態度である。これで初めて自己が結果的に他者に紹介され、他者の内部で自己という人間が再構築されながら認識される。そして共感を生み、協働につながったり、あるいは重要な議論の論点が見つかったりする。それに必要なのは、自己を語ることが許容されているというゆとりの認識、他者の自己語りに傾聴するというゆとり、自己語りに対するレスポンスを通した深層理解、問い立てのためのゆとりといったようにそうした「ゆとりの態度」が必要だ。

 そうしたゆとりを排除すると超機械化高生産性集団が誕生するのだろう。それを別名工場の生産ラインと呼ぶ。もはや人間集団ではない。どうしてここまで、1500字近くを割いてゆとりについて語っているかというと、ゆとりという概念こそがこの現代の資本主義社会の中で「本当の意味で」持続可能な社会を創るために重要な概念だと痛切に感じているからだ。もう2030年まで8年弱しか残されていない。それでも未だに、ホームレスの人権を蹂躙するような発言が生まれ、格差は拡大し、国内の情勢不安のために平和の祭典に参加できない人がいる。それでも僕たちは人間であり、人間の集団だ。包摂した大きな集団であるためには、対立する概念との徹底的な対立、排除は必要だ。決してなかったことにしたり、それを単に批判するのではない。すこしでも今より自分自身にゆとりを持つことができれば、それで自分を許す事ができるかもしれない。自分を認めることができるかもしれない。もしくは自分を少しだけ今より愛することができるかもしれない。そのためにはまず、自分の嫌いな自分を受け入れる努力をしてみたり、怒り狂うほど劣悪な犯罪事件を前に犯罪者に対して向ける憎悪の少しを「なぜそのような事件が起きてしまったのか?」という構造に対する問いに使ってみたり、手近なkとからゆとりを生む努力をすればいいのだと思う。そして同時に、力のある人々が、自身の下にいる組織のメンバーに対して、まずは自らがゆとりを持ち、それを自然に示しながらメッセージを発し続けてほしい。そして僕はこのメッセージが届くまで、効率が求められる中においても多くの文字数を割いて言葉にし、伝えたいことを伝えたいように、僕なりの読み手を想定しながら、態度と言葉で発し続けたい。そして何よりも、自分がゆとりを持って生きていられるよう、時間の浪費にケリをつけたい。

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