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夏雲の誘惑

モクモクと湧き上がる夏雲を眺めていると、なぜこんなにも旅へと誘われるのだろう。

noteでのお題で #人生を変えた出会い というものを見つけた。
ちょうど今まさに、僕の人生を変えた本を読み返していたのだった。
それは素樹文生さんの、「旅々オートバイ」という本。

15年前、千葉パルコの本屋でこの本に出会った。
その頃僕は同じビルの屋上で、スケボーパークの受付のアルバイトをしていた。
受付といっても何のことは無い。下の階にあるムラサキスポーツでチケットを購入したお客さんから、そのチケットを屋上で受け取るだけ。
今の時代なら真っ先に自動化されて無くなっているアルバイトだと思う。

この仕事はとにかく暇だった。
その頃空を眺めるのが好きで、いくらでも眺めて空想に耽ることは出来たのだけど、あまりにも暇すぎてそれにも飽きてしまったくらいである。
そこで昼休みに本屋でも覗いてみようと思ったのだ。

その頃、僕は漠然と旅に憧れていた。
体育大へ進学はしたものの、部活も辞め同級生にも馴染めず、何者でもない自分に嫌気が差しているのに、何も行動をしていない、弱虫な人間だった。
ここではない場所、もっと輝ける自分を探していたのだろう(今ここにいる腑抜けな自分しかいないのに、だ)。
そんな事もあってこの本を手に取った。

屋上に戻って、昼ごはんのパンをかじりながら表紙を開く。
ページをめくるごとに、食べるペースが遅くなっていく。
そして「旅々オートバイ」は、あっという間に僕を旅の世界へ連れ去ってしまった。
その日は幸運にも、暇な中でも抜群に暇な一日だった。
時折来るお客さんに、急に現実へ引き戻されながら(たぶんあのときの僕はろれつが回っていなかったんじゃないだろうか)、スケボーパークのチケットを受け取るとまた主人公と旅を続けた。




最後のお客さんが帰る。
終業時刻をかなり過ぎて、やっと我に返り、そっと本を閉じた。
深いため息を吐きながら、少し伸びをする。
日が傾いた夏空。ビルの合間から見える入道雲。

あの日見た光景が、ずっと心に焼き付いている。
そのとき僕は決意したのだ。
旅に出よう。オートバイに乗って。

それから僕は急いで自動二輪の免許を取って、生まれて初めてローンを組んでオートバイを買った。
ヤマハのSR400。
シンプルでクラシックな見た目と、単気筒の音が大のお気に入りだった。
荷台にテントと寝袋、自炊道具を積んで日本中あちこち旅をした。


旅は「経験」だ。それ以上でも以下でもないと思う。
知らない町を歩き、色んな人、沢山の価値観に出会う。
どうにも出来ないことにうちひしがれたり、見知らぬ人の優しさに涙したりする。
そして帰った後に、少し他人に優しくなれる。
たったそれだけのこと。
それでも、あの頃の旅が今の自分を多少なりとも作ってくれているのだと信じている。


夏の雲を見ると思い出す。
千葉パルコの屋上、スケートボードの音。
「旅々オートバイ」と、今思い返すとちょっと恥ずかしい、19才の自分。


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