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私が私を背負って生きる

長い間noteを更新せずにいたのは、お金稼ぎに邁進していたからだった。
この間の自分にとって、お金を稼ぐことは絶対的な善で、「お金より愛が…」だとか、「大切なものは目に見えない…」だとかいう言葉を一切受け付けないどころか、「そんなこと言ってるやつが結局一番金を食うんじゃ、ボケカス死ね」と害虫退治をするような勢いでいた。

躁状態で思想が行き過ぎていた自覚はあるものの、事実、私の周りには「弱者のために」というスローガンを抱えて、実際には人一倍弱者差別に加担していることにも気付かず、国民のおこぼれにあずかって生きているだけの、文字通り「害虫」のような福祉従事者が溢れている。
本業が訪問介護である私は、「将来、絶対にこいつらみたいにはなりたない」という凄まじい生理的嫌悪感をバネに、福祉とはかけ離れた分野での副業に励んだ。

副業に励みながら私は、どこにも属さないで個人の力だけで食い扶持を稼ぐことの途方もない大変さを知った。
それと同時に、自分の生命を自分で背負う経験が無いと、人の本当の痛みには気付けないということも知った。

自分の生命を何かに委ねながら生きてきた人の口から出る「人のため」と、自分の生命を何かに委ねるのを辞めた人の口から出る「人のため」との間には、大きな乖離があり、全く別のものであるということを、ひしひしと感じた。

その乖離に気付くと同時に、私は自身に問うた。
私自身もまた、かつては自分を顧みることなく他者に貢献することでアイデンティティを保っていた人間の一人だったからだ。
その行動の裏には、自分自身の弱さから目をそらし、他者を助けることで自己満足に浸る姿があったことを認めざるを得ない。

前者は、何が本当に「人のため」になることなのか、きっと理解していないのだ。
その目的が、金稼ぎではないことは事実だ。かつての私がそうだった。
だが、ぼんやりと「良いこと」を決めつけて、ぼんやりと実行に移すことが、「善」になるどころか「悪」を補強することに気付けないままでは、解決しなければならないクソ仕事を増やすだけだ。
また、その行動が最終的に自分自身をも傷つける結果となることは言うまでもない。

それは、福祉の世界に浸っていては気付けないことだった。
今日出会った福祉関係者たちは、紛れもないクソだった。
宮台真司の言う「クズ」だった。
人間の介在しないシステムを使って多くの生命を生かしても、意味がない。大量生産されたロボットたちの中で、自分自身もロボットに変わっていくことを、黙って静観しているのはごめんだ。

自分自身をも背負えず「他人を背負う」などとのうのうとほざくあの人たちのような、本当の意味での「社会のお荷物」にならないように。
私が私を背負って、懸命に生きよう。
そう思った。


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