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我儘の彼岸:柚木呂高短編集

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出されたお題の数々に思考を遊ばせ、物語ごとに文体を変える。 現実と空想のあわいを泳ぐスペキュレイティブ・フィクション的世界観。 人魚の生首と過ごす『人魚の友人』、脱げた黒猫の靴下… もっと読む
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午前九時のインパンクチュアリ

午前九時のインパンクチュアリ

 青い空には雲がまばらに浮かんでいて、それがこの広大な空間に唯一遠近感を与えていた。それは風もない日で、砂浜に出したデッキチェアに座ってただなだらかな波を繰り返す海の様子を眺める、沖には嘗ての街を思わせる文明の名残り、建物の頭部がひょっこりと覗いている。片手には瓶ビール、もう片手にはよれた文庫本を持って、小さなトランク型のポータブルレコードプレイヤーがギル・スコット・ヘロンを鳴らし、プチプチとなる

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バルーンズ

バルーンズ

 朝、出勤の折に鳥が飛んでフンをしたとして、その下を歩いてその糞を肩に浴びるとなると、その運の悪さにがっくりしてその後一日が台無しになるようで不安になるものだが、では謎の球体が空より飛来して、自分の右の肩、耳からきっかり五センチメートル程度の間隔を空けてピッタリと追跡するように浮遊していたらどうだろうか。恐怖を抱くだろうか、愛着が湧くだろうか、それともやはりがっくりして一日が台無しになるような予感

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鼓動

鼓動

 高校三年生の時分、花布芙蓉は実に不真面目な生徒で、新しく買ったCDをのんびり聴きたいからという理由から、授業中の中庭で日差しを避けて音楽を聴いていた。池にはまばらに咲いた睡蓮の隙間を縫う鯉が水皺を立てて涼しげで、風はなくしんと凪いでおり、日陰の石の冷たさとカンカンと照る陽の光のコントラストが世界を半分に分けるようである。するとふと濃い影が一つ差す。それがするりと降りていくと、池にざぶんと波がたっ

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白いコギト

白いコギト

 山には主人をなくした黒髪で肌の白く美しいアンドロイドが一人住んでいて、主人の土地であった山で草むしりをしているところがときどき見られる。なんとかという有名な日本の人形師が造形したオーダーメイド製だそうで、こんな片田舎では珍しい代物だから、誰もが知っていた。近所の人間は好奇心から話しかけたり、ちょっかいを出したりとしていたが、しかしあまり上等なAIを積んでいないらしく、要領を得ない返答であったり、

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ペロリア

ペロリア

 風が出ていても何も靡くものがないような静かで灰色の風景。朝窓のそばで歯を磨きながら代わり映えしない景色を眺めるが、刺激を与えるものはただ安っぽい歯磨き粉の味だけだ。髪を結い外に出て深呼吸をする、気分が晴れることもなく曇ることもない、凪いだ感情を確認する。梱包箱ような建築物が規則正しく建ち並ぶ街の隙間を縫うように格子形の道が走って、朝のまばらな人通りに弱々しく生命が燻る。
 月曜日はいつもより早く

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人魚の友人

人魚の友人

 花布芙蓉は仕事の帰りに友人の璋子と飲みに行った。酔郷譚に倣って珠でも瑤でもなく、ましては霊でもない、待賢門院の璋子と書く。コロコロと鳴るように笑う女で、高校時代から大学まで一緒だった親友である。会社は残念ながら別々になってしまったが、似たような業界だからか、互いに生活のリズムは似ており、こうやって共だって酒を遊びに行くのは珍しいことではなかった。

 二人は酒に強いわけではなかったが好きであった

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残氓

残氓

 午前五時、目を覚まして窓を開けると曇り空が芝生の緑を色濃く見せている。涼しい風が部屋の一晩の間に淀んだ空気を洗い流すようで快かった。エスプレッソマシンでミルクを温めて飲んだ。名前のわからない鳥が窓を横切った。良い朝だった。直也は死のうと思った。

 今まで抱えていた希死念慮が、大きなきっかけがあるわけでもなく、ただ何気なく一線を超えた瞬間、直也の頭の中では死ぬための準備や手順をどのように取るべき

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雨音

雨音

 僕がまだ高校生の時分のことだ。その日は大雨で、まるで滝が地面から生えているようだった。夜の雨は家の窓からの灯りを反射して黒々とした中に白い光を放っていた。空から垂れた大量のビニールテープが揺れるようで少し幻想的な気分に浸っていると、階下から姉が上がってきて、何だかじめじめして嫌な気配だから今日はエアコンのある二階の僕の部屋で寝ると言ってきた。僕は眠る前だというのに、階下に降りてミルクたっぷりのコ

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黄泉鳥

黄泉鳥

 不運な事故によって鶫子《つぐみこ》は死んだ。細かい原因はよく判らないが、車輪のネジが緩み、崩れるようにして頭を強《したた》かに打ってそのまま即死したとされた。残された家族や友人は人の人生の理不尽を目の当たりにそれぞれに何か思うこともあったろうが、そんな人々の思いとは裏腹に葬儀は恙無《つつがな》く終わった。

 次に鶫子が目を覚ますとそこは記号と数字の世界だった。寝ぼけ眼を擦すり、曖昧な視界によく

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硝子片

硝子片

 彼氏と喧嘩をして、私は自宅に帰ると枕を壁に投げつけてわんわん泣いた。そのあとに冷蔵庫から2リットル弱のコストコのアイスを取り出すと、抱えるように好きなだけ食べた。間接照明を少し明るめに、お酒を少し飲んで、大好きな漫画をパラパラとめくる。そしてお風呂に入って香を焚いて音楽を薄く流してベッドに入ると、落ち着いたと思ったはずの腹立ちがまたふつふつと煮え立ち始める。このまま恋人と顔を合わせても、私は機嫌

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シミュラクルの糸

シミュラクルの糸

 綺麗に結った長く美しい雀茶の髪が蛍光灯の光を浴びて艶めいていた。今週から晶三の部下となった珠里は出勤してくると彼に挨拶をして座席に着く。その所作のどれを取っても自然であり、椅子に座って鞄を脇に置いて髪をかき上げる仕草も、わずかに何かを思い出すような素振りをしてから慌てて書類に目を通すなどしている姿も、如何にも体温を感じさせる柔らかい動作だった。晶三はそれが何やら嫌だった。彼は自分のこの感情をレイ

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一人の男と無数の男

一人の男と無数の男

 夏にしては少し涼しい朝、ニュース番組を流しながら牛乳をたっぷり入れたシリアルを食べていると、ふと涙がとめどなく流れ出した。職場の上司の脇が臭い、とにかくその事実がつらくて仕事のことを考えるだけでも嫌悪感で震えてきてしまう。母親が心配そうに私に事情を尋ねるが、ただむせび泣き「臭いのよ」と言うことしかできないのである。上司には非常に申し訳ないが、人格がどうであろうが、仕事ができようが、臭いものは臭い

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焦慮の箱

焦慮の箱

 禎次にとって今日は母親の葬式や飼い犬が子供を生むよりもずっと重要で最も大切な日であった。ヴィクター・アンド・ロルフのフォーマルだがカジュアルな遊びを効かせた服装を小綺麗に決め込み、きれいに整えた髭に柔らかく撫で付けた上品な髪型、ペンハリガンのジ・インピュデント・カズン・マシュー・オードパルファムの香りを薄く靡かせながら待ち合わせの場所へと急いでいた。

 ずっと恋人のあった亜都子に長年片想いを寄

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カタンの作

カタンの作

 形夏が欠勤をして三日目となった。仕事は至って真面目で無断欠勤をするようなタイプでもないし、泰然自若なやつで会社で問題があるという様子もなかったので、同僚は彼女に何かあったのではないかと心配をし始めていたのである。彼女の先輩にあたる花布芙蓉は何度か形夏の携帯電話に電話をしたが繋がる気配はなく、ますます不安になるのだった。

 夏も翳り、風の涼しさが心地良い夜であった。寄り道のあとの深閑とした宵闇に

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