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カタンの作

 形夏が欠勤をして三日目となった。仕事は至って真面目で無断欠勤をするようなタイプでもないし、泰然自若なやつで会社で問題があるという様子もなかったので、同僚は彼女に何かあったのではないかと心配をし始めていたのである。彼女の先輩にあたる花布芙蓉は何度か形夏の携帯電話に電話をしたが繋がる気配はなく、ますます不安になるのだった。

 夏も翳り、風の涼しさが心地良い夜であった。寄り道のあとの深閑とした宵闇に引磬の余韻のような音で虫が鳴いている。芙蓉は帰路を照らす電灯の灯りをてんてんと跳ねながらいっぱい気分でいると、ふと携帯電話が震えたのを感じた。見ると知らない番号のようである。何故曖昧な言い方なのかというと、酔いのせいなのか番号がぼやけているようで上手く読めないのだ。少なくとも辞書登録されていない番号であることは間違いはない、普段ならば取らないはずの知らない番号の通話を受けたのは、秋の気まぐれか、酩酊する指先のしわざか。芙蓉は電話を耳に当てて「はぁい」など間延びした応答をした。

「先輩。あの形夏です。夜分遅くにすみません。実は相談したいことがあって」
「あ、形夏ちゃん、みんな心配していたのよ。どうしたの」
「どう説明して良いか、その、体をなくしてしまったんです」

 形夏は四日前の日曜日、友人が主催しているパーティーでクラブに出かけていたのだが、その日は好きなDJが来日していたこともあり、しこたま飲んで体がバラバラになってしまうほどに景気よく踊っていたのは覚えているが、どこかで前後不覚になってしまったらしく、気付いたら体をなくしていたという。では今はどうしているのかというと、幽体離脱したような感じで曖昧に漂っているようである。

「一応会社にも出社してたんですが、誰も気付いてくれないですし困っていたんですが、さっきたまたま試したところ、頭から直接、いや、頭も今はないのでこれは正しい言い方なのかは自信がないですが、とりあえず頭と思われるところで上手く思考すると、電波に乗せて人に電話をかけられることがわかったんです」
「便利なのね、霊体って」
「そんなこと言ってられませんよ、体がないってすごく不安定で、そこにあるもの、空気とか風を舞う木の葉とか通り抜ける鳩とか、そういったものと混ざってしまうような感覚があるんです。それが自分の同一性に水皺のようなものを起こして、随分心細いんですよ」
「それで、その体は見つからないの」
「それなんですよ、先輩も一緒に探してくれませんか。霊体と言えど建物の中に入るには扉や窓が空いていないと入れないですし、結局自分で扉を開けられない分、生身よりも行動に制限があるんです」
「上司からもあなたの事は気にかけなさいと言われているし、協力するけれど、どこか心当たりの場所はないのかしら」
「うーん、まずはクラブですかね、渋谷の道玄坂上にあるところです。あ、一応Twitterで、体を見つけた人いたらリプライを下さいとは書き込んでおきました」
「取り敢えず明日あたりそのクラブに行ってみましょうか。しかし困ったわね、なんて聞けばいいのかしら、ここに人の体が倒れていませんでしたか、って言うのは変よね」

 まだイベントが始まる前のクラブ、煌々と照らされたエントランスに準備中の受付がいたので、芙蓉は従業員を読んできて欲しいと頼んだ。従業員は程なくやって来て話を聞いてくれた。取り敢えず五日前のパーティーで誰か倒れた人はいなかったか聞いたところ、その日のことはよく覚えているが、健全そのもののイベントでそういった問題は起きていないとのことだった。恐らく薬に関連した何かを聴取されていると思ったのだろうか、どうにも言い訳じみて話を聞くのに難儀したが、ともかく人が倒れていたなどの話はないということだ。彼女が話している間、無色透明たる霊体の形夏はクラブの中を見て回ったが、自分の体を見つけることはできなかったようであった。

 芙蓉は収穫もなくクラブを出たので意気消沈していたが、ふと数字が曖昧な番号から電話がかかってきている。目を擦ってみても数字が判然とすることはなく、ぼやけていると言うには形はハッキリとしているが、どうにも判読することができないという不思議な文字である。これは形夏であろうと取ると、果たして少し興奮気味の形夏の声が聞こえてきた。彼女曰く、恐らく記憶の断片がそこに転がっていたらしく、不覚となっていた時分の記憶を少し取り戻したとのことであった。

 散々踊って楽しんだ形夏は、明日も仕事だからいい時間で切り上げようと思っていたところ、仲間のひとりが自分の家で飲み直さないか、と誘ってきたのだという。その男性に形夏は密かに恋慕を抱いていたのと、家も近所で歩いて帰れる距離だったのもあって、散々迷ったがついていくことにしたようである。そしてどうにもその家についた辺りから再び記憶を失っているようだ。

 夕刻も過ぎた頃、形夏に案内して貰いながら笹塚の駅に降りて、南側に少し進んだところに電灯に照らされた枯れ木のように茶色いマンションが見えて来た。その四階の一室に形夏の仲間の部屋があった。チャイムを鳴らすとラウンド型の眼鏡をかけた少し変わり者の雰囲気で、パリッとした細身のブロッキングシャツを着て清潔そうなナリの男性が玄関を開けてくれた。形夏の同僚であることを伝えて、ここに彼女が来なかったかと聞くと、どうももごもごして要領を得ない。如何にも何かを隠しているような様子だが芙蓉はさほど話術が得意な方でもないので、二人して「エ、その」だとか「はあ、まあ」だとか曖昧なことばかり言って話題が進展する様子がない。

 そのスキを突いて形夏はスルリと部屋の中に入ってみると、きれいに整理されたデスクにパソコンが置かれ、周りを見回してもテレビとソファ、整頓された本棚があるのみで何ら変哲も無い独身男性の部屋だった。しかし寝室に行くとそこには形夏の持ち物と思われるクロエのバッグがある。「あ、こいつ」と形夏は叫んだが、その声が誰かの耳に入ることはなかった。

 芙蓉が電話を取ると、形夏がその男と話したいからかわってくれと言う。「形夏から」と言って携帯電話を渡すと、男は明らかにギョッとしてそれを恐る恐る受け取った。

「ちょっと、私の体はどこ」
「待ってくれ形夏、違うんだ、知らなかったんだ」
「ああ、もうそのことは良いから体はどこって聞いてるの」
「怖くなったから、知り合いに蒐集家がいて、そいつに売った」
「化けて出てやるからね」

 それだけ言って満足したのか形夏は芙蓉にかわるように伝えた、男は電話を彼女に返したが見るからに青ざめている。形夏が気の利いたことを言い過ぎたか、さもなくばどうにもこの男に形夏の幽体離脱の原因があるようであった。取り敢えずその荷物は後日形夏が取りに伺うということで話がついて、次は男の知り合いである蒐集家の家に行こうと言う話になった。

「あの男はそのままで良かったの。もっと追求しなくてもいいの」
「いいんです、実はまた記憶を取り戻して。彼は本当に何もしていないんですよ」

 形夏は「ただ私に口づけをしただけ」と言った。それが嬉しくて、顔が熱くなって、天にも登るように幸福で、時間も体も溶けてしまいそうだった。そうしたら体から魂が抜けてしまい、少しの間夜の涼しい闇に紛れて、全てが曖昧で、自分も外もなく、ただ漂う何かとなっていたが、一日経って少しは冷静になったのか、自己というものを思い出したそうである。呆れた話であるが、恋する人は往々にしてそういうものであるのを芙蓉は思った。

 蒐集家の家は中目黒にある。もう夜も遅いが、形夏の想いの男が連絡をしておいてくれたおかげで対応はスムーズであった。死体を蒐集する者というのはどんなに恐ろしい人間であるかと芙蓉は不安であったが、非常に感じの良い初老の男性で、その妻もまた好人物だった。部屋を見渡すと、船の模型や細工された時計、鳥の置物、少女の写真、瓶と果物を描いたナチュール・モルトなど、美しい芸術品が並んでいた。その中でもひときわ目を惹いたのは球体関節人形だった。青白く物憂げな雰囲気で少女なのか大人なのかその境界の間の姿の人形。不思議だったのはその服装が如何にも現代的で、まるで今どきのファッションに関心のある若い女性といった風情だった。その儚く艶やかな立ち居には生命が微かに息づくようで、この人形の生活が容易く想像できるような血の温もりがあたかも感ぜられて、目が離せなかった。

「それです、昨日譲ってもらったのは。天野可淡にしては珍しい成人した女性の人形です。それにしてもやはり少女らしい面影を残していますが」
「えっ」

 憂いた表情なので気付くのが遅れたが、確かにその姿は形夏に瓜二つであった。然るに天野可淡といえば有名な人形師である、形夏の話を信ずればこれは死体のはずだが、この初老の男が自らの異常な趣味を隠匿するために人形と言っているのか、いやしかし芙蓉は死体を見たことはないが、このつややかで毛穴の一つもないなめらかな肌は確かに人形のもので間違いなさそうである。そのとき、部屋の電話が一斉に鳴り出した。携帯電話、家の電話、果ては玄関のチャイムまでもがけたたましく叫ぶ。天井の電灯がせわしなくチカチカと明滅し、初老の夫婦も芙蓉も何ごとかと恐れ慄き、三人で肩を寄せ合ってぶるぶると震えていると、可淡が作の立ち上がるのがかすかに見える。光と闇の交互の裡に彼女の美しい横顔に微笑みがチラリと見え、最後の暗闇が払われたときその姿は消えていた。残された三人はぽかんと間の抜けた顔を互いに見合わせて部屋の灯りにぽっかりと照らされていた。

 翌日、芙蓉が会社に行くと形夏は普段どおりに出社していた。連日の欠勤を責められて上司にやかましく絞られていたが、舌をペロっと出してあっけらかんとしている。青白い陶器のような肌に仄かなチークを引いた小さな顔は、陰鬱と言うには快活すぎる。その笑顔が眩しくて芙蓉は昨日のことは夢か何かかもしれないと思った。形夏が自席へ戻る際にふと芙蓉と目が合うと、それがいたずらっぽく秋波を送り、ふっくりした唇に白樺のような人差し指をそっと当てるのであった。

【完】

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