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"知らんけど"という言葉が苦手


ぼくはこの言葉が苦手だ。


よく関西弁を話す人の特徴として”知らんけど”を語尾につけるというものがある。


例えば

「〜〜だと思うよ。知らんけど」

という感じ。


方言の一種だし仕方ないけれど、ぼくはこの言葉を耳にするとどうしても気になってしまう。


その理由を少し考えてみたい。



さっそく結論を言えば、”知らんけど”は「自分の話に責任を取らないスタンスを相手に対して表明している」から苦手なんだと思う。

言い換えれば、自分の話したことが真実かどうかの判断を聞き手に任せてしまっているということ。話の責任を放棄すると言ってもいいかもしれない。



ぼくは常日頃から「自分の発言ぐらいは責任を持ちたい」と思っているし、それを意識して話をしている。

だから”知らんけど”に違和感を覚えるのだろう。


もちろん”知らんけど”という言葉を使うことを否定するつもりは全くない。言葉狩りみたいに捉えられるのも不本意だし。



誤解の無いように言えば、ぼくは言葉として苦手だから使わないようにしようと思っているだけ。

あくまでもぼくの心がけに過ぎない。




でもこれは”知らんけど”に限らない話だとも思う。


例えば、自分の言葉遣いについて気を配っている人というのはどのぐらいいるのだろうか。

自分で言うのも恥ずかしいが、ぼくはかなり気を配っている方だし、周りの人の発言にも気になってしまうことが多い。



ぼくは、言葉遣いは自分の考えが滲み出るものだと考えている。


例えば「〇〇でいい」という言葉がある。

この言葉にあなたは違和感を覚えるだろうか。


おそらく覚える人、覚えない人がいると思う。


どちらが正解というわけではないが、例えば何か食べたいものを聞かれた時に「〇〇でいい」と答えるのは、ぼくは聞いていて悲しくなる。

それに、その発言に違和感を覚えない人にもぼくは感心できない。


なぜなら「〇〇でいい」という言葉には〈〇〇よりも食べたいものがあるかもしれないけど考えるのも面倒だし相手に丸投げしちゃえ〉のようなニュアンスが含まれているから。

少し誇張した表現になったが、”知らんけど”と同じく責任を放棄する言葉の一つなので、ぼくは使いたくないと考えている。


だからこの場合は、ぼくは「〇〇でいい」ではなく「〇〇がいい」と答えるべきだと思う。



以上が言葉遣いについてのぼくの考え。

参考にするか反発するかは人の自由だし、ここまで読んでくれたあなたの発言を強制するつもりは毛頭無い。


でもこのnoteをきっかけに言葉遣いについて少し考えてもらえたら嬉しい。

たぶんいい機会になると思っている。








知らんけど。







と締めるべきだったのかもしれないが、やっぱりぼくには難しかった。


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