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「生きる」を整える-禅と食 #本棚
食事をつくること、食べること、そのすべてが「修行」であり、「生きること」そのものなのです
「生きる」を整える―『禅と食』枡野俊明著を読み終えた。
禅、というと坐禅とか写経とかそういう特別なものを想像してしまうのだけど、そうではないらしい。日常生活のなかで行う全てのこと、歩くも寝るもありとあらゆるふるまいが「禅」で、自分を高めて輝かせるための修行につながっている。そのなかでもこの本は「食」のことを通じて禅に触れられる本。
つくること、食べること、食材の扱い方、食事の作法…ありとあらゆることに意味があり、その大切さを読み進めていくごとに知ることができる本だった。
中には「現代にこんな難しいこと無理だわー」なんてツッコミをいれたくなるところもあるけれど、せっかくのお休みの機会。
時間が慌ただしく流れていくなか、ちょっと自分のふるまいなどを見直し、立ち止まるいいきっかけになったと思う。ときどき立ち止まるのも必要ですよね。(わたしの場合、立ち止まりすぎだと言われそうだけど)
●食事をつくることは自分を輝かせること●
典座和尚は、修行僧が無事に修行を終えられるように毎日心をこめて料理をつくり続けているが、それは自分を輝かせようとしているのではなく、本分をまっとうしているから自然と輝いているのだと書いている。
確かに「成功者」ってよく言うし、「成功者になるには」みたいな本もたくさん出版されているけれど、それは周りが好き勝手に呼んでいるだけで、実は本人は「成功者」と思っていないのではないだろうか。ただやりたいことをやっていたらそうなった、好きなことを突き詰めたらそうなった、という人のほうが多い気がする。これって多分そのひとにとっての「本分をまっとうした」ということなんだよなあ。
一生懸命やっている人って、なんとなく馬鹿にされる風潮にあるように思うのだけど、本分をまっとうしようとしているだけなんだよなあ。それの何が悪いのかっていう話で別に何も悪くないよね。
ふと自分のまっとうする本分ってなんなんだろうとぼんやり考えたんだけど、今すぐわからないからとりあえず目の前にある食材で料理しようと思った。
●どんな人にでも「まあ、お茶でもどうぞ」の心●
「喫茶去」と身分にかかわらず同じ言葉をかけた禅師がいるという話。
近くに住む祖母はわたしがいくと「まあお茶でも飲みや」とあつい日本茶とちょっとしたおかきやクッキーを出してくれる。それをいただきながらおしゃべりをするのだけど、人のいれてくれたお茶って美味しいんだよなあ。今わたしにはそんな相手がいないので、「まあお茶でも飲もうよ」と誰かに言う機会がないのだけど、もしできたらおいしいお茶をいれてお菓子も用意できたらなあ、なんて思う。先入観のないまっさらな心で、もてなしたい。今までもてなされていた分、今度はもてなす番だ。
●寝る前の2時間前は食べものを口にしない●
これはちょっと無理だなあと思った。なるべくこれに近づけたいのだけどな…。どうしても仕事上ね…お菓子も食べたいしね…
禅僧は酒をたしなむことを固く禁じられている。しかし、禅僧のなかには左党(お酒が好きな人)もいて、その左党たちはお酒はだめだけど薬ならいいだろうと、お酒を「般若湯」(はんにゃとう)と呼んで薬として飲むことにしたそうだ。これ、同じような話を聞いたことがあって。それはココアなのだけど、イエス・キリストの復活祭前の四旬節は断食しないといけなくて、やはりココアは食品として持ち込むのはだめだけど、薬という大義名分があれば持ち込めるだろう、いうことで修行僧が持ち込んでいたという話。実際お酒もココアも体に悪いことばかりではなく、いいこともあるから薬品、という見方もあるそうだ。ココアに関しては食品なのか薬品なのか、現在でももめているらしい。あ、でもこのココアの話、結構うろ覚えの部分もあって。ここまで書いときながらなんなのですが、ソースも含めて一度ちゃんと調べてみますね。
どの宗教でも同じようなことやってんだなあと思うと面白いなあと思った。仏さまも神さまも修行中とはいえ少しぐらいは目をつぶってくれるよなあ。
ありがとうございます。文章書きつづけます。