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家康はナゼ出陣したのか?:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart13【合戦場の地形&地質vol.5-13】

歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。
前回は犬居城から只来城へ至る街道も断層沿いだったことが分かりました。
前回記事はコチラ👇

今回はいよいよクライマックス!
やっとこさ「三方ヶ原の戦い」に突入します。


二俣城からどこへ?

迫り来る武田軍に対して浜松城での籠城戦を覚悟した家康でしたが、武田軍は浜松城を素通りして西進。
それを知った家康は武田軍の背後を突くべく出陣するも、準備万端で待ち構えていた武田軍の返り討ちに遭い、敗走する。
と言うのが「三方ヶ原の戦い」の概要です。

兵力的に劣勢だった家康が、なぜ出陣したのか?
この問いに対して考察するために、2つの疑問点を解消しましょう。

そもそも各地の位置関係はどうだったのか?
三方ヶ原とはどんな地形だったのか?

まずは二俣城(ふたまたじょう)、浜松城、三方ヶ原等の位置関係を確認しましょう。
二俣城とは、三方ヶ原の戦いの直前に武田軍が攻略した城です。

二俣城、浜松城周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

各地の位置関係です。
武田軍は犬居城で二手に分かれ、二俣城で合流。
また伊那盆地経由で三河国に侵攻した山県昌景の部隊は、長篠城を攻略して二俣城で合流しています。
なお二俣城を攻略した後は、青矢印のルートで進軍したと思われます。

三方ヶ原は、赤丸一帯の段丘堆積物の平坦面です。
確かにこのようなルートで進軍していれば、「浜松城を素通りした」と捉えても不思議ではありませんよね。
しかし図で見ても分かる通り、三方ヶ原はかなり広い平坦面です。
こんなところで戦えば、兵力で劣る徳川軍は圧倒的に不利ですよね。
もし武田軍が待ち構えているなら、有利な布陣を敷いて準備万端で手ぐすねを引いて待っている可能性だって予測できます。
しかも武田軍には戦国時代最強とも呼ばれる騎馬軍団があります。
このように広い平坦面は、騎馬軍団が大活躍する絶好の場所です。

ではなぜ、家康は出陣の決意をしたのでしょうか?

家康出陣の理由を地形から考察する

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、家康やその家臣達は武田軍が岡崎城へ向かうと予想し、そのためには祝田(ほうだ)の坂を通ることとなるため、坂を下りる武田軍の背後を突けば勝てると考え、出陣したと描かれていました。

しかし実際には真実は分かっておらず、専門家の間でいくつかの説が提唱されているようです。
ウィキペディアに記載されていた各仮説の中で、私が気になった5つの説は以下のとおりです。

  1. 家臣や国人衆たちの信頼を得るため(ここで武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る可能性があった)。

  2. 祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていた。

  3. 挑発に乗ったふりをして浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた。

  4. 戦うつもりが無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった。

  5. 信玄の「堀江城攻略による浜松城兵糧攻め作戦」に家康が気付いたため。

以上のうち、どれか1つと言うよりも、いくつかの理由が複合していると見る方が良いかと思います。

まず大前提として「1」の理由はあったと考えられます。
武士は名誉や矜持を何よりも大切にしていましたから、本拠地を素通りされる「恥辱」を放置することは、求心力の低下に繋がります。
また実利で考えても、弱い家康では徳川家に未来はないと判断し、離反する家臣も出て来るでしょう。

逆に「3」と「4」は、可能性として低そうだと感じます。
その理由は、三方ヶ原と浜松城の地形と位置関係です

三方ヶ原周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

三方ヶ原周辺の拡大図を見ましょう。
浜松城は段丘平坦面の南東端に位置しており、周辺の地形は複雑です。
武田信玄が浜松城を直接攻めなかった理由の1つは、まさにこれだと思います。
城攻めを避けて野戦に挑むのであれば、数で有利な武田軍は広い平坦地で戦いたいと考えます。
そうであれば、上図の黒点線で囲った範囲の外に出る可能性は低いと考えられます。

その場合、いくら時間稼ぎとは言え、家康が黒点線の範囲内で戦う選択をするとは思えません。
こんな場所で戦ったら瞬殺されるのは目に見えていますから。

また「物見に出ていた部下を城に戻すため」も無理を感じます。
浜松城から黒点線の範囲まで4~5kmの距離があります。
部下を城に戻すためだけの理由で、5kmも離れた場所まで全軍を向かわせるでしょうか?

浜松城周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

浜松城周辺の地形図をさらに拡大しました。
浜松城に近づくにつれ、平坦地の幅は狭くなり、赤矢印の場所で約500m
幅1mあたり1人だとして1列500人ですから、数の差はほぼ無意味になります。
またこれだけ地形が入り組んだ場所であれば、三方ヶ原で戦う場合とは全く違った戦い方が必要になります。
つまり物見を全滅させるためだけで武田軍が深追いすることはなく、仮に家康が物見を逃がすために出陣したとしても、戦闘に巻き込まれる可能性は低そうです。

だとすると、以下の2つに絞られます。

・「祝田の坂」の地形を利用すれば勝算があったから
・浜松城が兵糧攻めされるのを避けたかったから

次回はこれらについて検証します。

お読みいただき、ありがとうございました。

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