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家康の3つの選択肢:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart15【合戦場の地形&地質vol.5-15】

歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。
家康はなぜ浜松城から打って出たのか?
様々な説のうち、筆者が最も可能性が高いと考えているのが「兵糧攻め」です。
細かい戦術はいくつか想定されますが「浜松城より西の城を落として、補給線を断つ」のが信玄の大局的な目的で、それを阻止するために家康は「打って出ざるを得なかった」のではないでしょうか?

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今回はいよいよ大詰め。
信玄の"詰将棋"を見てみましょう。


3つの可能性から1つに絞った経緯

武田軍が浜松城を兵糧攻めにするための次の一手として、以下の3通りが想定されます。

  1. 三方ヶ原台地北縁沿いに南西へ向かい、堀江城へ(この時、武田の海賊衆が浜名湖を窺っていた)

  2. 浜名湖の北を通って野田城へ

  3. 北北西へ進軍し長篠城へ。長篠城で軍勢を整え、野田城へ

この中で祝田の坂を通るのは「3」のみです。
なお家康の家臣である大久保忠教(ただたか)の著作である「三河物語」では、「祝田の坂を下り始めてから攻めれば勝てたのだろうが、逸って突撃したため返り討ちに遭ってしまった」と言った風な記述があるようです。
そのため、三方ヶ原の戦いの決戦の舞台は祝田の坂の手前の地だという説が最も有力になっているようです。

確かに、武田軍が祝田の坂を通る可能性が一番高そうですが、堀江城へ向かおうが野田城へ向かおうが、家康にとっては大差はなかったかも知れません。
それは地形を見れば明らかです。

堀江城付近の地形

まず堀江城付近の地形を確認しましょう。

堀江城周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

堀江城は浜名湖に突き出た半島の縁辺部に位置しているため、進軍ルートは、上図の赤点線が想定されます。
このあたりは台地の侵食が進んでおり、平坦地は細長くなり、谷が入り組んでいて複雑な地形です。
この傾向は堀江城に近くなればなるほど顕著です。

ここで良く考えてみましょう。
武田信玄がここを通って堀江城を攻めると思いますか?

そもそも浜松城を攻めずに素通りしたのは、地形が複雑なため、攻め難いと考えたからだと思われます。
狭く入り組んだ地形では、兵力差を生かした戦いができませんからね。
しかも浜松城に待機している徳川本軍に背後を突かれる危険もある。

この時武田の海賊衆が浜名湖を窺っていたとのことなので、水陸両面から堀江城を攻める準備をしていたと考えられます。
信玄としても、堀江城を落とすのが最善の策と考えていたでしょう。
しかし浜松城に待機している徳川・織田連合軍は、信玄にとってとても邪魔な存在であったのは間違いありません。

三方ヶ原台地を下りる道

次に、野田城へ向かうパターンを考えてみましょう。

祝田の坂付近の街道:遠江国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

野田城へ至る街道は上図の青線です。
祝田の坂を通る街道とは別ルートですが、祝田の坂の手前から堀江城方面へ向かう途中に位置しています。

三方ヶ原北西部の地形図:スーパー地形より抜粋

野田城へ至る街道は現在は姫街道と呼ばれる県道261号線に相当すると考えられます(上図の黄色の道路)。
当時の街道が現在の県道と一致しているかは分かりませんが、いずれにせよ台地の縁辺部は急崖になっているので、街道は下り坂になります。

つまり武田軍が野田城へ向かうとしても、台地の縁辺部で交戦すれば、徳川に有利になると予想されます。

織田の援軍について

ここで確認しておきたいのが、織田の援軍です。
ウィキペディアを見ると、文献によって差がありすぎるようで、明確な数字は示されていませんでした。
少ない説では3,000人(総見記[織田軍記]より)。
多い説では20,000人(前橋酒井家旧蔵聞書)。

武田軍27,000、徳川軍6,000~8,000と見積もられているので、最も多い説である20,000ですと、兵力はほぼ拮抗します。
そのような状態で野戦を行って、そこまでの大敗を喫するとは考えにくいと思います。
次に多い19,000はほぼ同数ですし、文献は武田家の軍学書である甲陽軍鑑(こうようぐんかん)なので信ぴょう性に欠きます。
というのも、歴史書は書いた人がいた勢力を美化する傾向にあるため、「大軍を撃破した」と言いたい武田方の意向が反映されていそうですからね。
そうなると先述の2万も怪しい。

なお援軍の合計は2万だったが、複数個所に分散して配置されていたという説もあるようです。
だとすると三方ヶ原の戦いに参戦した織田軍を1万と見積もっても武田より約1万少ない。
そのくらいの兵力差であれば、籠城を基本線としつつ、野戦では地形を利用すれば勝てると考えても不思議ではなさそうです。

信玄の巧妙な詰将棋

これまでの考察から、武田軍が浜松城を素通りしたことで、目的地を3通り予想できますが、いずれにしても地形的に徳川に有利になります。

しかし長篠城は既に武田領であることから、挟み撃ちの危険がないという点で「祝田の坂を通る可能性が最も高い」と、家康が考えた可能性があります。
ここで、武田軍の二正面作戦が絶妙に効いてくるんです。

そう。
長篠城が落とされていなければ、武田軍の目的地を1つに絞ることができ、三方ヶ原の戦いは起きなかったかも知れないのです。

どういうことか?
次回、地形を見ながら考察していきましょう。

お読みいただき、ありがとうございました。

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