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長篠城の根本問題:長篠城の地形と地質part2【お城と地形&地質 其の六-2】

「お城」を地形・地質的観点から見ていくシリーズ。
長篠城は徳川と武田の間で激しい争奪戦が繰り広げられた城です。
「天然の要害」と言われ、南と東は河川沿いの崖に守られています。
その落差は約30m

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しかし、そんな長篠城にも弱点がありました。


長篠城の攻略法は?

「天然の要害」と呼ばれる長篠城。
南は豊川(とよがわ)、東は宇連川(うれがわ)に守られ、しかも立地している段丘平坦面は山地と川に区切られ、外部からの進入路は限られます。

長篠城周辺の地形図③(再掲):スーパー地形画像に筆者一部加筆

一見、攻めにくそうに見える長篠城ですが、地形を良く見ると、攻略法がありそうです。
問題は背後の山地!
この山地、そこまで険しくないし、標高も高くない。

長篠城周辺の地質図:スーパー地形より抜粋

背後の山地は黄色の地質です。
これは新生代新第三期中新世の前期から中期のあたり(約2000~1400万年前)砂岩泥岩で、岩盤ではありますが、そこまで硬くない地質です。
ですので、谷筋は直線状でゆるやか。
尾根との標高差もあまりないので、沢沿いに上がって尾根を越え、反対側の沢に降りるのは容易にできそうです。

長篠城北方山地の地形図:スーパー地形より抜粋

まず注目していただきたいのが、上図の北にあるやや広めの平坦地です。
「吉村」と言う集落があります。
現在はここと長篠城の平坦地は道路でつながっていますよね。
地形を見てもアップダウンは大きくなく、谷沿いに登って尾根を越えて反対側の谷に降りる・・を繰り返して歩けます。

そもそも現在の国道も昔ながらの街道と概ね同じルートであることからも、この道路も昔から道として利用されていたと考えられます。

長篠城北方山地の地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

上図の赤矢印点線が、さきほど話した道路沿いのルート。
他には「吉村」まで行かなくても、黄色や黒のルートで赤に合流することもできます。
また逆側の西方面からも、青のように侵入できるルートがあります。

つまり、複数の侵入ルートがあるんですよね。
もちろん数は限られるので、守備側が事前に封鎖することはできるでしょう。でもその場合、兵力に余裕がある必要がありますが。

ただし、この地域に詳しくなければ知ることは難しいルートだと思いますので、長篠城はやはり「天然の要害」であることに変わりません。
が、しかし!

長篠城の弱点

攻め難い長篠城ですが「背後の山からの侵入ルートがある」と言う意外な弱点がありました。
もっとも地元の地理に詳しくなければ知りえないルートですので、武田軍がはじめに攻めた際には相当苦労したようです。

しかし最終的には武田方が優勢になり、当時の城主はやむなく降伏します。その後の数か月は武田領になった長篠城。
しかし、その数か月がその後の長篠城の運命を決めたと思われます。

そう。その数か月で武田信玄は長篠城周辺の地理を徹底的に調べたハズ。
領民から情報収集するなり、部下に調査させたりなど・・。
その証拠と言っては何ですが、徳川が長篠城を奪還した後に、再び武田勝頼が攻め入った際には、どうもあっさりと平坦地に侵入したようなのです。
これについては「長篠の戦い」で詳しくお話しします。

そもそもの弱点とは

織田・徳川連合軍が長篠の戦いで勝利したことにより、長篠城は助かりますが、その後、廃城になってしまいます。
何度も攻められたため、修復に時間も金も要するのが主な理由でしょう。
しかし私の推察通りなら既に武田勢に弱点を知られてしまっており、攻められるたびに落城の危険がありますし、徳川家康がそもそもの弱点に気付いたからかもしれません。
弱点と言うより「意義」の方がしっくり来るかも知れません。

長篠城の位置:スーパー地形画像に筆者一部加筆

もう1度、広範囲の地形図を見ましょう。
長篠城の地政学的な存在意義は「北方から平野部に侵入する敵を食い止める」ことにあります。
これを念頭に、局地的な地形図を再確認しましょう。

長篠城周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

改めてこの地形図を見て、何か感じませんか?
長篠城は確かに天然の要害ですが「攻められた場合に弱いのは、北からか?それとも南からか?」と問われたら、明らかに北からの攻めに弱い立地にあります。

長篠城を攻める側としては、何としてでも背後の山から平坦地に侵入する方法を考えるでしょう。
それが攻略法だと気づけば、抜け道を知られるのは時間の問題です。

長篠城周辺の地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

もし長篠城周辺の地形が上図のように南北逆だったら全く違っていたでしょう。

つまり、長篠城は北からの敵を防ぐための城なのに、北側に弱点があるという、致命的な弱点を抱えていたことになります。

もしかしたら、廃城になった一番の理由は、これだったのかも知れませんね。

今回は以上です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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