「姉川」が決戦地となった理由とは?:「姉川の戦い」を地形・地質的観点で見るpart2【合戦場の地形&地質vol.4-2】
歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。
「姉川の戦い」は浅井長政の裏切りから逃げ切った織田信長&徳川家康らが体制を整え、浅井&朝倉連合軍を討つべく起こした戦いです。
前回は、織田陣営が国境(くにざかい)付近の長比城(たけくらべじょう)を手に入れたところまでお話ししました。
前回記事はコチラ👇
早速、この後の展開を追っていきましょう。
いきなり本拠地攻め?!
長比城を手中に収めた織田信長は、早々に同城に入り、2日後には虎御前山(とらごぜんやま)に布陣します。
虎御前山は、なんと浅井長政の居城である小谷城(おだにじょう)のすぐ目の前にある山でした。
確かに長比城を押さえてしまえば、途中に地形的な障壁はほとんどないので、一気に進軍することは可能でしょう。
でも、もし私が浅井長政であれば、途中の場所で戦うことにすると思います。
それはズバリ!上図の青点線で囲った場所です。
左右に山があって狭い上に、川もあります。
ここなら織田軍相手に善戦できたのでは?
拡大図です。
やはりここなら、渡河できる場所も限られるため、対岸から鉄砲や矢で攻撃すれば、防げたように思います。
とは言え素人案替えですので、そう簡単ではないのでしょうが(;^_^A
ただ浅井長政がここで戦わなかったのは理由がありそうです。
と言うのも、長比城が織田軍に陥落したあたりで、朝倉軍は一度本拠地に引き返しているんです。
狭いとは言え、幅1.5~2kmはありますから、それなりの兵力でなければ塞ぐことはできませんからね。
もし朝倉軍が引き返していなければ、ここで戦になった可能性もありそうです。その場合、もしかしたら織田軍が負けていたかも?
・・話を戻します。
信長はもちろん朝倉軍の一時撤退を知っていたでしょうから、彼らが戻る前に浅井家を滅ぼしてしまうつもりだったのでしょう。
・・しかし!
小谷城を見た信長は「簡単に落とせそうにない」と判断したようです。
確かに急斜面に囲まれた山の上にありますし、その他様々な要因で攻めにくそうです(※詳細は別記事で話します)。
方針転換
攻めにくいとは言え、全くどうにもならないことはないと思います。
おそらく信長は「朝倉軍が戻る前に落とせるかどうか?」と考え、無理だと判断地たのでしょう。
確かに虎御前山に布陣した約3日後には、朝倉軍が戻っています。
方針転換した信長軍は、じっくり足場を固めるために、南下して横山城を攻めはじめます。
上図の黄丸が横山城です。
やはり山頂にあるのですぐには陥落しないにせよ、ここを押さえれば、長比城から横山城までの平野部一帯が織田家の勢力範囲になりそうです。
そうなれば、横山城がある山地の西の狭い平野部を封鎖することもできるでしょう。
南には浅井長政の家臣の城がありますが、分断することができます。
姉川の戦い
織田軍は横山城を包囲するも、織田信長自身は少し離れた場所に布陣します。
信長が布陣した場所は上図の赤丸です。
竜ケ鼻(読み不明)という地名で、山を利用してつくられた古墳(茶臼山古墳)でもある場所です。
※参考サイトはコチラ👇
横山城を包囲しつつ、信長自身は浅井&朝倉連合軍を監視していたのでしょうね。
間もなく徳川軍も合流し、姉川の戦いが始まります!
おそらく、概ねこのような布陣だったと思われます。
間に姉川があるとは言え、それ以外はだだっ広い平野です。
大激戦だったと言うのも頷けますね。
このような場所での戦の場合は、数が多い方が有利そうです。
はじめは織田方が劣勢だったようですが、最終的には数で勝る織田&徳川連合軍が勝利します。
今回は以上となります。
お読みいただき、ありがとうございました。
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