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「反面教師」は「他人軸」



以前この記事にも書いたように、私が「結婚」というイベントにあまり興味が持てない理由の1つに、「育った環境」がある。
子供ながらに「なんでこの人達結婚したんだろう?」と思うくらい、私の両親はいろいろと噛み合っていないし、いわゆる「仮面夫婦」だった。
(実際のところ平たく言えば「寄生先の確保」が一番の目的だったみたいだし)
(というか程度に差はあれど↑こういう意識はきっと多くの人が持ってると思う)
(良い悪いは別として)


なので「結婚」そのものにポジティブな印象を抱けなかったし、反面教師にして自分は幸せな家庭を築くんだ!という意欲も特に湧かなかった。
もちろん性格的に、自分1人の時間や空間がないと無理なタイプというのもあるけど。
なので「同じ轍は踏みたくない、そういう寄生目的の結婚をするくらいなら1人で野垂れ死んだ方がマシ」とさえ思っていた。(過激派)
(ついでに何故か物心ついたときから、「私の代で最後」「私で終わらせる」という意識を持っていた。何故だか分からないけど。)




一見「自分の意志をしっかり持っている」ように思えるかもしれないが、この考え方はひょっとしたら「他人軸」なのでは?と最近気付いた。
「親みたいになりたくない」というのは、「親を基準として考えてしまっている」ということだ。
「親」を基準として「そうではない方」という選び方をしてしまっている。

「親はそう。だけどそれは置いといて私はどうしたい?」の方にフォーカスしてはじめて、本当の「自分軸」だと言えるのではないだろうか。


私の中にはまだ、「親のようになってはいけない」「1人で生きていける状態じゃない人が寄生する目的で結婚してはいけない」という強固な固定概念があるのだと思う。
もちろんお花畑のゆるふわマインドでするものでもないし、理想の形はあるけど、それが「こうであってはいけない」という否定からきているとしたら、それは違うのでは?と思った。

(ちなみに理想の形は一昔前のゼ○シィのCMであった、「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」のマインド。結婚したい人もしたくない人も否定せず、「結婚」の価値を高めた名コピーだと思う。)



まあ相変わらず結婚願望は湧いてないんだけど、「寄生する目的で結婚するくらいなら1人で野垂れ死んだ方がマシ、はちょっと過激派だなあ(苦笑)」と思える程度には、「"こうであってはいけない"ではなく"こうありたい"の方にフォーカスすればいいんだな」と思える程度には、凝り固まった固定概念を少しだけほぐせたような気がする。

こういうことに限らずいろんな側面において、「何を得るか」より「何を手放すか」の方が大切だなあ、と思う今日この頃なのでした。



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