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「心配」よりも「信頼」を/「好き」なものを「好き」と言える幸せ

ここ数年の私の動向を知っている数少ない友人に、今現在また無職であることを告げた。
すると返ってきたのは、「その生き方好きすぎる」という言葉だった。


こういうとき、「なんで?大丈夫?これからどうするの?」といった類の言葉を返してくる人が大半だろう。もちろんそれが悪いわけではないし、なんなら私も悪気なくそう言ってしまうだろう。
けどその友人は、特に何も聞かず、否定もせず、真っ先に「好き」と返してくれたのだ。


「心配」するというのは、見方を変えるとその人のことを「信頼」していないとも言える。
その人にはその状況は乗り越えられないんじゃないか、という懸念がどこかにあったりする。
でもその人の考え方や決断を「信頼」していれば、どんなに無茶だと思えるような状況でも「心配」することなく肯定できる。


もっと深入りして、自分ごとのように真剣に考えてくれるのももちろん嬉しい。
対人スタンスや優しさの形は人それぞれだけど、私はその辺あまりこだわりはないというか、どんな形でもその人なりの優しさなんだなあと思ってありがたく受け取れる。
そしてそれが本当に私のことを思って言ってくれているのか、見下しているのか、思っているけど敢えて言わずにいてくれているのか、その辺のニュアンスも意外と分かるものだ。


ともかくいろんな形がある中で、この友人のスタンスは私の理想である。
こんな風に人と関われたら、そういう人が増えれば、争いは起きないんじゃないかとすら思う。
なので友人が「好き」という言葉を返してくれたことが、そんな友人が居ることが嬉しくて、スーパーの野菜売り場で1人ひっそりと泣いた。
(そしてキャベツを買い忘れた)




好きな人から「好き」と言ってもらえることが、どれだけ嬉しいことか。
以前結婚に関する記事でも書いたけど、「好き同士」が一緒に居られるって奇跡だと思う。

そして好きな人に「好き」と言えることも、同じくらい尊いことだ。
リアルな人間関係でも推しでも物でもお店でも。
私は比較的「好き」なものも多いし、それに対して「好き」と言える方だし、なんなら資料作ってプレゼンしたいくらいだけど(笑)、中には自分の「好き」が分からない、分かっていても伝えられない人も居るだろう。

無理矢理好きなものを作る必要もないし、思ってもいないなら言う必要もないと思うけど、もし好きなものがあるなら、伝えられる状況なら、どんどん「好き」だと伝えた方がいいと思う。
言葉が全てではないけど、その一言によって救われる何かもきっとあると思うし、思っていたのに伝えられなかった後悔はきっと残ると思うから。



そう考えたら、好きなのにまだまだ伝えられてないこと結構あるなあ。
資料作るか(違う)。

(春ツアーのチケット当たった!やったー!!)



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