冬の一等星(きみはポラリス)

2年前の日記というか読書感想文を久々に読み直した。若いなって感じている笑

今の自分の視点から2年前の自分を眺めると、なんだかずいぶん遠くまできたなという思いがして、非常に感慨深い。社会人になってから高校や中学を訪れたときの感覚に少し似ている。大人になった自分が、かつて青かった自分を思い返して、ああ成長したな、少しは賢くなったな、周りの人を気遣えるようになったな、自由になったな、でも昔はもっと純粋だったな、もっと人にやさしかったな、呆れるくらい馬鹿正直で素直だったな…そんな自分の不可逆的な変化に一抹のさみしさも感じたりする。

歳を重ねた今の私が、かつて「私」だった過去を振り返る。思い出したくないこと、忘れたいこと、なかったことにしたいことも多々あるけれど、総じてどの「私」も一生懸命その瞬間に何かを感じ、生きていたのだなと、かつての私が記した記録を読んで実感した。できれば定期的に自分のその時の思いや考えを残しておいて、この先もっと歳を重ねた私がどうそれを眺めるのか、その楽しみを残しておきたい。

久々に、読書感想文を残そうという気分になった。読書感想文といっても、この話を初めて読んだのはもう8年前くらいだった気がするが、なぜこの話を今読み返したのか、読み返して何を思ったかを記しておきたい。

三浦しをんさんの短編集「きみはポラリス」の中の一作である「冬の一等星」。車の後部座席で眠っていた少女が、その車を盗んだ男と共に一晩のドライブに出かける話だ。

私はシンプルにこの一節が好きなのだと思う。

信じる?と文蔵は聞いた。何度聞かれても、私は信じると答えるだろう。それを教えてくれたのは文蔵だ。

「得体のしれない他者」。それは何もはじめましての相手だけではなくて、今自分の目の前にいる人、長い間そばにいてくれている人にも言えると思う。

今、私のそばにいる人が、私と同じものを見ている人が、それをどう感じ、何を考えているのか。それはその人にしかわからないし、その人でない私は、想像こそすれど、本当のところは全くわからない。わかるはずがないのだ。他人は他人であって、私ではないからだ。どんなに長く一緒にいても、深く付き合っていたとしても、言葉を尽くして説明しても、究極のところその人と私は全く別の個体として存在している限り、完全に理解することは不可能だろう。自己と他者の間にある、絶対的な断絶。昔の私は、どこまでいっても人は孤独なんだなという現実に嫌気がしたり、ふてくされたりしていた。何をやっても誰といても生きていることの寂しさや虚しさは消えないんだなと。

しかし大人になり、それなりに人生の酸いも甘いも(?)経験してきた今の私は、他者との分かり合えなさや絶対的な孤独を、絶望や諦観をもって受け入れるものではなくて、むしろ希望や好奇心をもって挑んでみたいもの、というふうに捉え始めている。人間、一人一人別個の存在である限り、全く同じ人間がいないのは当然だ。しかし、自分と異なる見方や感じ方をする他者がいるからこそ、新たな気づきや発見がある。それは自己の殻に閉じた世界を、より遠く深いところまで広げてくれる。分かり合えなくても、理解しあえなくても、そのわからなさや違いそのものを「未知なるおもしろいもの」と感じ尊重しあえたらいい。

そうした未知なる他者の世界にいざ冒険に出かけようとする時、私はいつもこの話を思い出す。

「信じる」こと。

思えば私はこの「信じる」ということが本当に苦手な時期があった。自分で思考することを放棄しているようで、ものすごく恐ろしい所業のように感じていた。信じられないから、自分の常識や理屈を持ち出して、他者の言動をそれに当てはめて理解した気になろうとする。どんどん世界が閉じたつまらないものになっていく。

理解しえない他者の世界を自分の理解できるものに落とし込むのではなくて、そのままに想像してみること。そして、完全には分かり合えなくとも、きっと何か伝わっていることはあるはずだと「信じる」こと。

「冬の一等星」では、少女と男が夜空の星を眺めながら星座を探すくだりがある。果てしなく広がる満天の星空の中、相手と自分が確かに同じものを見ていて、それについて言葉を交わしている。

それを「お互いが勘違いしているだけだ」と冷めた目で見ることもできる。でもできれば、”全天の星が掌に収まったかのように、すべてが伝わりあった瞬間” というのはこれから先きっとあるはずだと信じたい。
この話はそんな勇気を与えてくれる。

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