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【考察】三論考 ~組織運営を考える~【創作系】

諸論

 こんにちは。炉紀谷 游ろきや ゆうです。マルチメディア系創作サークル<サークル・オベリニカ>の創設者として、本日は、諸論をお届けします。
 これは、新年度を迎えるに当たり、サークル活動をどう考えていくべきなのか――思考の整理とメンバーへの意図の共有を図るために作成した論考です。
 これ自体は昨年の11月に作ってあるもので、申し送りのようなものですから、実際の計画に沿うものもあれば、取りやめたものもありますが。

 論考の前に一つ。サークル・オベリニカには「創る。憩う。考える。」という共通理念があり、これに基づいて当サークルは活動しています。
 様々なものを創り、発信する。同じ空気を楽しむ者同士で憩う。そして、自分たちの営みを考える。その3つがこのサークルの基盤になっています。

 では、記号を身体的なものにする試みを、ともに楽しんでもらえれば幸いです。

創作行為論

 当サークルの活動基盤となる創作行為を、わたしたちはどのように定義すればいいでしょうか。記号論の考え方によれば、世の中にある数あるものは記号<シンボル>と定義することができます。記号は表象的なものです。

 文学テクスト、絵画テクスト、映像テクスト、それらを包括した芸術テクスト(解釈可能な”芸術”というメディア、みたいな意味で受け取ってください)は、表面的には、色の集合体、文字の集合体、というように考えることができます。

 「創る」に興味を持つということは記号<シンボル>――あるいは「メディアを創る」という点で私達が興味を惹かれていることを指すのではないでしょうか。
 自らの手で、世の中に新しいカタチ――シンボル、あるいはメディア――を生み出す。本質的に備わっているのであろう創作本能が私達をそのように突き動かすのではないでしょうか。

 一方世の中の記号<シンボル>には、表面だけではなく、当然内容も存在します。
 言語学者ソシュールが提唱したのは、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)という概念です。

 「犬」という表現、あるいは/inu/(発音を表す発音記号)という音声は、それ自体に何らの意味がありません。これはあくまでも記号としての表現です。
 私達はそこから意味を解釈します。犬というイメージ。意味内容。これら記号表現に内在する記号内容を読み取ることで私達は、「犬」を理解することができます。

 創作論に照らし合わせて考えてみましょう。
 メディアを創る、という行為はあくまでカタチを創造しようという試みです。私達はそこから議論を重ね、そのメディアに含まれるべき「コンテンツ」に目を向けます。
 メディアとコンテンツ、この両者がよく重ね合わさったとき、私達は世の中に真なる記号<シンボル>を創り出せた、と言えるのではないでしょうか。

 記号表現と記号内容を重ね合わせることは困難な仕事です。ソシュールが主張するように、言語の枠組みにおいては、「犬」という文字とそのイメージが重ね合わさる必然性はない(つまり、記号間の関係は恣意的である)といいます。

 メディアにおいても同様です。一つの作品から多様な解釈が生まれるのは、記号表現と記号内容には隔たり、恣意性があるということを指すのではないのでしょうか。
 ときに、作品に対する解釈は一通りでなければならないという価値観に縛られる創作者の像が散見されます。それが誤っているかどうかは議論の対象でないとしても、一方私達が理想とするイメージは、外部発生的に生まれる解釈さえ、作品という枠組み(フレームワーク)に取り込み、日々、記号に満ちた<リアル>に作品世界を構成する姿なのではないでしょうか。

 ここまでの考察を踏まえると、本論のテーマである「創作行為」に対する態度がどうあるべきか浮かんできたように思います。

 創作行為――よりはっきりいえば、知的所産――は、メディアとコンテンツの双方に関心を寄せ、一方両者が示すファジーな関連から生み出される多様な解釈を受容するとともに、それさえも還元して創り続けることなのではないでしょうか。
 この確固たる信念が、当サークルの創作集団としてのアイデンティティを支えるものになることを切に願います。

サークル・オベリニカ 代表

推薦図書:
池上嘉彦 (1984) 『記号論への招待』 岩波書店, 東京.


コミュニティに関する考察

 当サークルは、ただ人が集うための場所でもなければ、創作集団としてのprofessionalismを必要以上に追求する組織でもありません。
 では、当サークルが描く創作コミュニティとはなんでしょうか。
 共通理念には「創る。憩う。考える。」があります。
 これらは相互に影響を及ぼしている詞たちです。

 人間の本質的な営みである「創る」という行為は同時に創作者へ内省を促します。そこで彼らのクリエイティビティは様々に刺激され、「考える」営みが、また新たな「創る」へと循環します。
 これは一般的には単独で行うことの多い「創作行為」の構造ではないでしょうか。他方当サークルは、この人間文化発達の根本を、現代の大量消費社会において実現しようと試みます。
 多様なメディアに溢れ、もはや一人の人間では収集することのできない膨大な情報量に囲まれている私達は、単純に生きていくことさえもそう容易ではなくなりました。先の創作行為は、この受動的な態度を要請する社会に対する反抗的態度の現れといえるでしょう。
 創るプロセスは創作者の内省を通して、それぞれに自己<アイデンティティ>を確立させるはずです。それが、混沌とした世界を切り開く「能動性」が発芽するきっかけになると私は考えています。

 これは、独りでは実現することが難しい試みです。故に当サークルが描く創作コミュニティは、創作プロセスのなかの「創る」や「考える」を全体で意識する組織ということになります。

 同時に目的を持って前進するコミュニティの構成員は、その内側の空間で、他者への干渉を相互に行いながらも自己を確かなものにしていくはずです。
それが「憩う」ことの意義であり、「創る。憩う。考える。」の全てということと言えるでしょう。


運営に携わる者としての向上心に関する考察

 どのように組織を運営したくとも、大体の理想は机上の空論に過ぎず、実際的に成功する運営の方法は結局のところ簡素なものに留まってしまうことは、多くの人間が経験してきたことだろうと考えます。
 では、当サークルを運営する者がもつべき姿勢はどのようなものでしょうか。
 それは「実験的行動」です。「試しにやってみる」ということばにすれば、非常に簡単で、それでいてとても難しいものであることがよく分かるはずです。
 組織が大きくなればなるほど、リーダーという立場の人間が本質的に行う「実験的行動」はますます困難になってきます。
 しかし、当サークルはこの「実験的行動」を代表たる立場の人間に要請し続けます。そうすることで、「実験」することが組織を牽引する原動力となることを期待します。

 ただし「実験」は積み重ねてきたものを破壊するような営みではありません。
 たしかに、前述の創作行為論やコミュニティに関する考察が示してきたように、当サークルの根底は「積み重ね」といっても差し支えないと考えます。故に代表という立場の人間は慎重にならざるをえず、進めていく力を残ってしまうことになります。

 「実験」は、その点、膠着しがちな人間心理についてのみ破壊します。
 観察と考察のプロセスのなか、適宜創造性を加える営み――それが実験と形式的に定義するとすれば、代表の動力はその実験性にあると考えることができるのではないでしょうか。

 将来に渡っても、このサークルの原動力が「実験的行動」に依拠することを期待します。


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読後にスキを。|炉紀谷 游

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