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檸檬の代わりに

しまった、どうやらここはハズレだったようだ。


診察台に寝っ転がり、天井を見つめながら思った。

ある日突然親知らずが生えてきて、驚いて歯医者にかけこんだ。こだわっている余裕はなかったから、とりあえず会社の近くで通いやすそうなところを選んだ。

だけど、診察室に入ったとたん、嫌な予感がした。慎重に扱うべき患者リストが、なんと目の前のモニターに大映しになっていたのだ。

「げ」と思いながらも、口を開け、診断を受けた。

親知らずのことを聞きたかったのに、開口一番、お医者さんは私にまだ乳歯が生えていることについて話し始めた。

「ああ〜、異常とは言わないけどねぇ、本来なら生えるべき歯があなたにはない。欠けている。異常ではないけどねぇ、いつか溶けちゃうねぇ・・・」

永久歯が欠けてることはもう10年前から知ってます。もちろん歯科検診のたびに指摘されてます。

だから、異常じゃないのなら、そんなに「異常」なんて強い言葉を連呼しないでおくれやす・・・と心の中で念じながらも、「はあ」と曖昧な言葉を返すしかなかった。

それだけでは終わらず、どういうわけか私の勤め先についてもお説教をくらった。

「きみのとこの会社の人、よく来るけど、すーぐ通院やめちゃうんだよねぇ」

またしても「あ、はぁ」と間の抜けた返事しかできず、手前の台にぴかぴかと並べられた、尖った医療器具たちを見つめるしかなかった。こちらに先端を向けた器具たちは、今にも飛びかかってきそうに見えた。

肝心の親知らずについては、「とりあえず放置するしかないです」とのことだった。これがもし「心配かもしれませんが様子を見てみましょう」くらいのやさしい言葉だったらよかったのに・・・なんて思ってしまうのはワガママだろうか。

診察を終え、疲れたなぁ、と思いながら外にでた。手に持っていた診察券をケースにしまおうとしたとき、ふと気づいた。

”タカフチ ユリ様”

ん?

私の名前は ”カタフチ”だ。なんと名前まで間違えられていた。

訂正しに戻ろうかと一瞬悩んだけれど、たぶんもうこの歯医者には二度とこない。

興味本位でGoogle検索をしてみたところ、”タカフチ ユリ”で漢字まで同姓同名の人は見つからなかった。タカフチさんはいわば、この世に存在しない架空の人間だ。

爆弾のかわりに檸檬を置いて丸善を去る人間の気持ちが、今ならすこしだけわかる。

実在しない人間のカルテが歯医者の棚にしまわれる様子を想像して、すこしだけ愉快な気持ちになりながら、地下鉄の駅へ向かった。

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