それでもやっぱり「ハリポタ日本語訳は最高だ」と叫びたい
私がハリー・ポッターと出会ったのは、8才のとき。高校で英語を教えている母が原書を読んでハマり、「ぽんず、この本絶対好きだよ」とすすめてくれたのがきっかけだった。
もちろんその頃の私に原書など読めるはずもなく、松岡佑子さんの訳した日本語版を手に取った。
読みはじめて数ページで、「あ、これ好きなやつだ」と確信した。素直におもしろいというのが恥ずかしくて、「お母さんがすすめてくれた本、悪くないと思う」なんて生意気な感想を伝えたことを覚えている。
ハリポタにハマったのは間違いなく原作の素晴らしさありきなのだけど、松岡さんの日本語訳の影響もおおきい。私にとって松岡さんの訳は、生まれてはじめて出会う本格的な翻訳だった。卵からかえったヒナが初めて目にした動くものを親だと思い込むように、私の中で松岡さんの訳こそが親であり続けている。
だからこそ、大人になってから松岡さんの訳を非難する言葉を目にしたとき、少なからずショックを受けた。まるで実の母親の悪口を聞いてしまったかのような苦しさを覚えた。
「子ども向けの翻訳で、大人の自分には読むに耐えない」とか「『我輩』なんて言葉づかいはダメだ」とか。そんな批判を見て、言いようのない悔しさが込み上げてきた。
たしかに翻訳は古びる。今この瞬間に、大人として初めてハリポタの翻訳を読むならば、物足りなさを感じるのかもしれない。今ならもっと別の訳があるのかもしれない。だけどそれはしょうがないことなのだ。どんな名訳でも、翻訳は古びる。それはもう絶対に。いくら野崎孝の「ライ麦畑でつかまえて」がすばらしくても、現代には村上春樹の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が必要なように。だから、完璧な翻訳などというものは存在しないんだと思う。
そもそもの話をすると、ハリポタが「お金になるから」なんて理由で、子どもだましみたいな翻訳になってた可能性もあったのだ。お金のためだけに適当につくられた翻訳はバレる。大好きな洋画の字幕が適当すぎて、手抜きがバレバレで泣いたことなんて何度もある。
想像してみてほしい。
もし「百味ビーンズ」が「いろんな味グミ」なんてダサい訳だったら?いくら子どもといえど、興ざめしていただろう。
もし「ホッグズヘッド」が「猪首亭」なんて和風な訳だったら?イギリスのパブに憧れを抱くことなんてなかっただろう。
もし「ルーモス 光よ」が「光れ!」だけだったら?英語への興味なんて湧いてなかっただろう。ルーモスの言葉を残してくれたからこそ、語源をたどる面白さを知った。原書の言葉を大事に残してくれたからこそ、ルミネという商業施設が「ファッションを通して女性に光をあたえる存在になりたいという意志なのかな?すてき!」なんて想像ができるようになったのだ。
そう思うとやっぱり、松岡訳の功績は計り知れない。だから私は、最大限のリスペクトを一生叫び続けたい。
「誰がなんと言おうと好き」と言えるものはそんなに多くない。けれど、松岡佑子さんの翻訳は、誰がなんと言おうと大好きだ。
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