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新卒での挫折がソロ活のはじまりだった

リーマンショック後の就職氷河期に、
新卒でブラック企業に入社。
訪問販売の営業をし、1年で辞めました。

4月1日 朝。
新社会人の初々しい集団を見かけて、ホテルの夜勤明けでボーッとする脳みそで、10年以上前のことを思い出しました。

私が人生で初めて挫折した話。
思い返してみると、この経験も間違いなく私を作っていると思ったので、書いてみます。


新卒で就職したのは訪問販売の営業所でした。

私がしていたのは、中学生向けの学力診断テストの販売です。家々に飛び込んでセールスします。
私がその3,000円くらいのテストを売った家に
後日、別の営業マンが「テストの結果を持っていく」という態で再訪し、結構な高額の教材を販売します。

社名をコロコロ変えるし、全国に同じ営業所があるのに社名が違う、かなり怪しい会社でした。


壁にはでかでかと社訓が掲げられ、
ホワイトボードや壁中に貼られた模造紙には、目標数字が並び、そして社員の名前の上に伸びる契約数のグラフ。
トップ営業マンの名前には、プレゼントに付けるような花が貼られています。

そんな、絵にかいたような営業所でした。

勤務時間は12時~21時となっていましたが、実際は9時~24時くらい。午前中に営業の準備を終えると、各々が社訓と目標を大声で唱えて「いってきます!」と出発します。

営業車で現地に向かい、中学生が帰宅する15時頃から、21時頃までの間に、15~20件の家々を2巡します。

ピンポンを押して、出て来てくれたお母さんとまず会話をします。その後、中学生の子どもが在宅なら呼んでもらって、営業開始。
いなければアポにして、あとでまた来ます。

一日1本とれれば(売れれば)万々歳です。
一日で3本とると「健闘」として皆から讃えられます。
逆に、月10本が最低ラインとされていて、
3ヶ月連続で10本切ると実質クビでした。

営業所の所長は、元気ハツラツに足が生えたような人で、とにかく声がデカくて豪快。
1本とってくると「さすがだな!ダハハハハ!」とガッチリ握手。
逆に、ボウズが続くと「おまえ仕事しとらんのと一緒だぞ、おら!!!」と怒号、そして椅子をドカドカ蹴り上げ、机をガンガン叩く。

いま振り返ると、パワハラ・モラハラどころの騒ぎじゃなくて笑えますが、当時私は「営業職というものは体育会系だからこういうものか」なんて思っていました。


そもそも、なんでこんな仕事を選んだのか。
訪問販売員が大嫌いな母に育てられた私が、訪問販売員に良い印象があるはずもなく。

よく考えてみると、その会社の事業のひとつ「子どもの海外学習支援」につられてエントリーしたのでした。

「入社3年は営業」という縛りがあるのですが、その営業の内容はうやむやにされているのに、尋ねる勇気もなく(おい!)リーマンショック後の就職氷河期で、選考に進める貴重な会社にとにかくしがみついていった結果です。(内定欲しさの愚かな考え)


そんな無知な私は、とんでもなく素直で従順でした。


訪販は嫌だと絶望的になっていましたが、所長が新人研修で言った「仕事は向き不向きじゃない、向き合うか向き合わないかだ」という言葉が、当時の私にバッチリ刺さってしまいました。

向き合ってみようと腹をくくった私は、先輩に同行しながら訪問販売の様子を見学し、意外と話を聞いてくれる人の多いことが強く印象に残っています。
しかも、すんなり子どもを呼んで、営業させてくれる。

私の母だったら居留守か、「結構です!!」と邪険に追い返すか、だったので、世の中そんな人ばかりだと思っていました。
もちろん、断られてなんぼの世界ですけど、ピシャッとドアを閉められても軽やかに家々を廻る先輩の背中を見て、「できる気がする」と感じはじめました。

先輩や上司は、私の成果を自分事のように喜んだり、一緒に悩んでくれるので、心から尊敬していました。
特に大好きだった教育係の先輩を喜ばせたい一心で、がむしゃらに向き合いました。

そしてメキメキ成長した私は、入社3ヶ月目、
全国300人の新入社員の中で最多の契約数をたたき出し、
全国にその名前を轟かせるのでした(すご!笑)


…というのはビギナーズラックで。
やっぱり断られることが多い仕事。
次第に心が折れていきます。
当初同じ営業所に10人いた同期も次々と消え、たった半年で新入社員は私ひとりきりになってしまいました。

長時間拘束で移動も長く、夜中の高速を居眠り運転し、気づいたら車線の真ん中を走っていたり、
サービスエリアで仮眠していたら朝になっていたり。

ネガティブのスパイラルに陥ると営業しても話を聞いてもらえるはずもなく、いよいよ最低ラインの10本がとれない月が続き、
「今月も取れなかったらもう…」という最終日も、結果はボウズ。

しかも営業していた瀬戸内海の島を出るときに、
営業車をコンクリートにぶつけて故障。
いろいろゲームオーバー。


人生ではじめての挫折でした。
中学受験をし、高校はエスカレーター式で、
大学も一応国立大学に通り、それから就職まで、
一流ではないけど ”順調な進路" をすすんできました。
それがたった1年で職を失って、はじめて "道" が途絶えてしまいました。


二度と経験したくないことですが、
この経験のおかげで、その後のどんな仕事も天国に思えるようになりました。

今はホテルマンとして働いていますが、接客に関する観察眼や会話について、通ずるところが多々あります。

それに、精神衛生を保つ方法をたくさん身につけたことは「ソロ活」のスタートだったのかもしれません。

営業に行く先々で、その町のごはん屋さんで食べたり、
壁取りのために地域の情報収集をしたり、
馴染むためにその土地の言葉を真似ることも、
思えば宿のコンセプトにも繋がる、「アウェイの居心地の悪さ」と「まぎれる心地よさ」の気づきでした、きっと。


学生時代もっと具体的に夢を探せばよかったと悔やむこともありましたが、進んだ道で素直に一生懸命に向き合ったから、
10年以上経った今、人生の糧になっていると思えたので、
あながち暗黒時代でもないのかも。


フレッシャーズの姿から大事な振り返りができました。


おわり。


ちなみに辞めてからの話はこちら↓

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