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私の領域展開~歌は祈り。表現は次元のレイヤー。生きることは芸術そのもの~

 あらゆる表現の中で歌が最も簡単に祈りの様相を呈するという話を数日前にちらっとTwitterでしたけど、その歌の中にもいくつか種類がある。そのことは数回前のRadioひらいしん(ラジオ番組。埼玉のコミュニティFM、775ライブリーFMで毎週放送中)で相方のさえさんと話したりもした。

 ヘッドボイス、ミドルボイス、チェストボイスという言葉がある。西洋的な音楽理論を用いた解釈では高い順に音域で分けられている指標のひとつだね。でも、歌唱する当人の持つ声帯によって音程を高く感じるか低く感じるかはもちろん異なるため、より厳密にいえばこれは音域ではなく意識の向きに合わせて名前がついているように思われる。明確にこの音域を男性が歌うとヘッドですとかいう指標がないのはその証左かなと思う。(とかいって指標、あったりして…)

 歌うときに声が自分より上を目指す(ヘッド)のか、同じ立場に対して同じ目線にいる(ミドル)か、地に足ついた現実を向いている(チェスト)かの違いをこの3つに分けているように私は感じるわけです。

(※ミドルボイス=ミックスボイスとして、ヘッドとチェストのハイブリッドを指す場合もあるようです。)

 私の思うヘッドボイスがどんなのかというと、具体的な歌手をあげるとすればLiberaという少年合唱団があるのだけどそれなんかは分かりやすくヘッドボイス。聖歌隊のようなものなので完全に祈りでもある。

 J-POPで言えば広瀬香美さん、平井堅さん、あとさだまさしさんもそうだし、X JAPANのToshiさんとか矢野顕子さんもそうだね。(…もっとたくさんいるけど)それぞれ印象が全然違うかもしれないけど、みんな意識の先が上を向いてる。祈り感つよつよの歌だなぁと思う。

 洋楽だとCyndi LauperさんとかMinnie Ripertonさんとかですかね。男性はMichael JacksonさんとかPhil Collinsさんとか…?あんまり洋楽詳しくないんだよね(笑)

 あとファルセットとヘッドボイスってよく比較されるけど、私的にはファルセットは「ヘッドボイスに含まれることもあるが必ずしもヘッドボイスではない」という認識。合唱の歌唱はみんな裏声だけど、必ずしもヘッドボイスではない。

 あと小室さんがプロデュースする女性ソロシンガーはほとんどヘッドボイスをやっていると思う。本人にその素質のあるなしに関わらず祈り系ヘッドボイス歌唱。それは結構ヘッドに向いてない人の場合きついんじゃないかな、消耗しちゃいそうだなって思ったりもする。

(この向き不向きは体のつくりもだし精神のあり様にも関係していると思っている)

 小室さんプロデュースの中でも安室奈美恵さんはミドルだと思う。最初から最後まで彼女だけ他のファミリーの皆さんと違う感じするのはそのせいかなと。天に向かってではなく聴衆のハートに向かって歌っている感じ。ヘッドボイスだって人の声ですから聞いてるのは聴衆なんだけど、表現する当人の目線は上の方なんだよね。

 なんていうか、花火を上げてる感じ。ヘッドボイス歌唱の人は花火職人。打ちあがった花火を見て聴衆は綺麗だなーって言ってる。

 ミドルボイスの歌は聴衆を直接包み込みに行く。かといって泥臭すぎない。適度に現実見つつ重すぎずという感じ。うっせえわのAdoさんなんかはミドルボイスの真骨頂って感じするかも。(関係ない話だけど彼女めっちゃ歌うまいよね)

 中島みゆきさんと松任谷由実さんはおそらく二人ともミドルだけど中島みゆきさんの方がヘッド寄りで松任谷さんはチェスト寄りな感じ。

 ミドルボイスの人は結構多い。というかほとんどの日本人歌手はミドルボイスな気がする。星野源さんとか。あと玉置浩二さんはその存在の神々しさゆえに祈りの歌度合いが強いんだけど実は方向としてはミドルで、祈りより強い包容力がある歌って感じ。

 秋元康さんとかジャニーさんのところのアイドルのみなさんとかはほとんどみんなミドルボイス。一方でハロー!プロジェクトの皆さんはチェスト寄りのミドル(あるいはミドルとチェストのミックス)って感じがある。つんく♂さんもそうなんだけどミドルでガッツリやってる中でたまにチェストが見え隠れする声。だからそこはかとない演歌感があるんだよね。

 そう、演歌の人たちはほとんどみなさんチェストボイス。(あるいはミドルとのミックス。)民謡からきた人はヘッドなんだけどね。

 私の好きな歌手の人はほとんどみんなヘッドに魅力がある人たちかもしれない。スピッツの草野マサムネさんとかはミドルとのミックスと言われてるけどそのほとんどがヘッドだと思う。THE ALFEEさんとかは、桜井さん以外の2人は完全にヘッド系。あの3人が不思議なバランスに感じられるのは、見た目の不思議さもあるんだけど完全に声の領域が3人中2人上の方に寄ってるからというのもあると思う。あまりあのバランス感覚で歌い続けてる人たちっていない。

 川本真琴さん、小川美潮さん、小林建樹さん、大貫妙子さん、大江千里さん、中村一義さん、山下達郎さん、トクマルシューゴさんとか、ぱっと思いつく好きな歌の人たちってみんな祈り属性ヘッドボイスを発しているような。

 最近はミックスボイスが若者を中心に高評価を得てますね。ミックスボイスとはつまり「ヘッドとミドル」「ミドルとチェスト」と、連続するふたつの領域を兼ね備えてる感じになる。ハイブリッド。外はさっくり中はしっとりみたいな欲張りが許される感じ。

 若者たちが好きなミックスボイスはヘッドとミドルの両刀を使っていることが多いように思う。King Gnuの井口さん、ゲスの極み乙女の川谷さん、Official髭男dismの藤原さんとかは祈りのような神聖さと、目の前の人を置いていかない適度な目線合わせをしてくれるので皆が好きになるのもわかる。

 ミドルとチェストの両刀なのはじゃあどういうのかというと、氷川きよしさんなんかがこれだと思う。泥臭い現実にどっぷりつかるチェストボイスを行きながら、掟破りな感じでヘッド寄りのミドルにまで足を踏み入れて、聴衆の心にさらっと目線を合わせてくる感じの歌。でもヘッドにまではいかないのでヘッドボイスほどの祈り感はない。

 あと自作自演のミュージシャンの場合、その本人の生き方や自己認識が変わると歌のありようも変わる。曲の持つ意識の話に及ぶと細かすぎてわけわからない文章になる気がするのであまり多くは書かないけど、たとえば私的にヘッド寄りミドルボイスという認識にいる中島みゆきさんの中でも「わかれうた」なんかはチェスト寄りのミドル曲だったりする。

 さらにその「わかれうた」をミドル寄りのヘッドボイスである草野さんと平井堅さんが歌ってる映像がYouTubeにあるので是非聞いてみていただきたい。泥臭さのない、かといって祈りでもない、不思議なミドルの「わかれうた」になっている。

 もうひとつ、草野さんでわかりやすい話をすればクリスタルキングの「大都会」を草野マサムネさんとTHE YELLOW MONKEYの吉井和哉さんが歌っている音源もYouTubeにはある。祈り系ヘッドボイス曲の「大都会」を、同じく祈り系ヘッドボイスの草野さんが歌うと違和感なく「祈り系大都会」になるのだけど、ミドルの吉井さんが歌うと「やや演歌寄りのフォーク大都会」になる。二人が交互に歌ったり一緒に歌ったりすると、聴衆は夢と現実のはざまに置かれたような不思議な振り回され方をする。

 共演という目線で行くとやっぱりヘッド同士、ミドル同士、チェスト同士は相性がいい。どっちもヘッドな矢野顕子さんと忌野清志郎さんなんか、見てて心地いいのは二人が個性的だからという見方をする人が多そうだけど、私からすれば「二人とも祈り系ヘッドボイスだからなぁ~」って感じ。

 繰り返すけど私は音域が高い低いで今ヘッドミドルチェストを判断していない。“当人の肉体”と“その音を発するために必要な肉体”の差異を推察して「ヘッドかミドルかチェストか」を見極めている感じ。

 例えばKANさんなんかは音域はそこそこ高いがヘッドではない。ミドルであり続ける。ミドルの持つ現実の領域にいる歌だから、ミドルボイスから見たらやや夢見がちにすら思える“祈り系ヘッドボイス”のところまでは踏み込んで来ない。

 ここまで好き勝手に書いてきたボイス話は、「声の重心が頭寄りにあるのか丹田寄りにあるのか」という話でもある。急に現実的な話になるけど。

 「へそ下にある丹田をしっかり鍛えてれば大抵の歌はうまく歌える」という固定観念が、ほとんどのボイトレメソッドには見え隠れする。

 実は私はこれはやや強引だと思っている。人の身体と歌の関係は、決して「へそ下の丹田さえ意識していればいい」なんてモノではない。多くの人にとってそれは近道かもしれないし、もちろんそれをやってみるのはアリだけど、それが全員にしっくりくるメソッドだとは思っていない。合う人もいれば合わない人もいる。

 ボイトレを受けたことのある人たちの言ういわゆる“丹田”(おへその下)は、歌以外の世界も視野に入れたうえで細かく言うと下丹田と言われる。下があるということは上があり、上丹田とは頭の辺りを指す。上下があるものには中もあるのが世の常で、中丹田は胸の位置を指す。

 つまり世にはびこるボイストレーナーさんたちが言っている丹田というのは、実は丹田の中でも下丹田だけを指している。ほんとは丹田は頭にも胸にもある。

 ほらみたことか。下丹田のマッチョ化だけがボイトレの近道というのも眉唾物の考え方だということなんですよ。ていうか、なんていうの、いろいろある要素のうちのひとつでしかないみたいなこと。

 広瀬香美さんが数年前にアイドルの女子に対してUstreamでボイストレーニングをする放送があったんですけど、その時彼女は常に発声について頭のあたりの話しかしてなかった。頭の上に風船があってそれを割るイメージとかを伝えていた。あれは完全に上丹田メインの歌のトレーニング。

 この教え方ってたぶん結構異色な感じなんだろうなと思ってる。なぜならボイトレ受けたことある人やボイストレーナーと話すと大体がへそ下の下丹田の話をしまくるから。

 私自身はボイストレーニングを他人から真面目に受けたことがない。なので一般的なトレーニングがどんなものかは数少ない情報から想像するしかないんだけどたぶん大体あってると思う(笑)

 何が言いたいかというと歌っていうのはすべて祈りのようなものなんだけど、祈りである歌の中にも色々な種類があるってこと。そしてその種類によっておそらくは鍛え方違うよねって話。

 ポケモンで言うところの「すばやさ」「こうげき」「ぼうぎょ」とかのどこに強化したいポイントがあるかの違いみたいなのが歌にもあるんですよ。なんていうんだっけ、こういうの。あ、「ステータスの振り方が違う」ってやつか。

 ちなみに丹田に対して上中下の言い方をするのは気功とかの領域の人たちです。あとはヨガとかやったり調べたりすると、必ず発見するであろう概念としてチャクラっていうのがある。あれで言うと頭とか上の方は第六・七チャクラで、胸のあたりは第四、丹田のあたりはたぶん第二チャクラが当てはまる。チャクラにはそれぞれ意味がある。その意味と、ヘッドボイス/チェストボイス/ミドルボイスに私が感じる意味のようなものは割と一致してたりするなぁと思ったりします。

 あとは、恐れることなく(笑)ずんずんそっちの領域に歩んでみると“グラウンディング”とかいうのも考え方として見えてくる。その考え方と、“下丹田至上主義のボイトレ”って結構一致具合があるなとか思ったりもします。

 歌は「気」を操るものだって私はこのあいだ直感で思ったんだけど、こういう「知識の本来あった領域を無視して展開」したときに基礎となる考え方が似通っていることを発見すると、自分の直感もあながち的外れでもないんだなって感じするね。

 ちょっと話を横道にそらすと、最近の私の中でのテーマとして「いろんな領域に分けて学んだ知識や経験を領域を取っ払って自分の生活に落とし込みたい」というのがある。

 どうやら最近流行りの呪術廻戦では“領域展開”、鬼滅の刃では“術式展開”という概念があるらしい。なるほど私の思考もトレンドと同じ骨子を持っているというわけですね(笑)というかたぶん人間はある一定の年齢を超えると自分がそれまで培ってきた特定の“道”での術を別の領域にも展開していくものなんだと思う。

......*:.。☆..。.(´∀`人)

はい。歌の話に戻りますね。

歌の話っていうか、ここからまた新たな領域展開が始まっちゃうのでみんな頑張ってついてきて!(笑)

 突然ですが、私は相手の性別にも自分の性別にもほとんど興味がないタイプの人間です。
“付き合っている男性がいるのに他の男性とサシで飲みに行くのをよしとしない”みたいな感覚もよくわからない。20代になりたての頃までは「常識としてそうなんだ…」というところで思考が終了していたので、友人同士のそういう指摘を見かけても何も思わなかったのだけど、今は「わざわざ他人が指摘することじゃなくない?」とか思う。
「付き合っている男性のいる女性が、女友だちとサシで遊ぶのならいい」っていうのもおかしな話なのよ。だって私、今まで生きてきた中で女性からも男性からも同じくらい愛の告白されるからさ(笑)

 性自認による人間の区別ってあまりあてにならない。相手が人間なら、性自認の男女に関わらず恋に落ち“られる”ことは同率であるんだよ。

 Aくん(自認男)と付き合っている井塔が、Bちゃん(自認女)に奪われるってこと、ありえなくはないわけ。私は女性に恋に落ちたことは今のところないけど。

 あと逆もね。井塔と付き合っていたAくん(自認男)がBくん(自認男)に奪われるなんてこともあると思ってる。

 人類みな兄弟とか言うけど、恋愛に限定して考えてみれば人類みんな恋敵になりうるという感覚でいる。でも全員恋敵っていうのはいちいち戦いになって大変(笑)だし、そういう、第三者と争う体制が必要な恋は1回ぐらいしかしたことないんだけど。

 性別に興味がない私なので、男女に分けて決められた振る舞いや行動選択には、無抵抗に従うのだけど「それっていらなくない?」と思うことも多い。特に“自分の好みが反映される選択”であるにもかかわらず“男女の違い”というものさしを使うことを強制されると不快感を覚える。

 たとえば(今はこのルールも薄まりつつあるけど)“女は赤で男は青”という認識。その認識を発端とした決まりごとへの違和感は物心ついてからずっとあった。でもまぁ「しょうがないな」と思って従う。肉体による区別に対しては選択権がないし。

 一方で「お習字セットの箱の色を赤か黒どっちにするか」という選択の時は自由が許されてとても居心地がよかった。習字の先生はどっちでも自由に選んでいいよと言っていたのを覚えている。黒を選ぶ女子も、赤を選ぶ男子もいた。そこでは私は赤を選んだ。「赤か黒かで言えば赤がいい」という、自分の好きな色ランキングに基づく選択だ。

 色そのものに付随する意味(男か女か)に興味がないので「それが男女のいずれ向けであるかに関わらずどちらも選ぶことができる」という自由が許された世界での呼吸は楽だった。

 小学生になると裁縫セットとか、何かしらの教材を買うタイミングがあると思うけど、そういう時に女子向けに作られている方からデザインを選ばされるのはものすごくイヤだった。確かお母さんにめっちゃ説得されてしょうがないから犬の柄の裁縫セット(女子向け)にしたのを覚えている。

 あと、服を買いに家族と出かけて、女児向けの服も見るけど同じくらいの時間男児向けも見たいという感覚だったので、いつもそっちは違うでしょって言われて「えー・・・」と思っていた。ある時ひどく怒られてそれ以来親と買い物するときはそっちにはいかないようになった(笑)

 その後、中・高・大学と経て、社会に飛び出て今に至るまでに感じた具体的な違和感の例をたくさん書いてもいいんだけど、あんまり長く書きすぎてもしょうがないから具体例の話はこの辺でやめておきますね。

 簡単に言ってしまえば「あ、こういうのっていわゆるノンバイナリ―なんだろうな」という話。
 最近、宇多田ヒカルさんが「I'm Non-binary. So, Happy Pride Month!」と発言したのがちょっとした話題になってますけども。あのインスタライブを見て、「あーなるほど、考える必要がなかったから考えなかったけど確かに男か女かを決める必要をあまり感じない私もその考え方を持ってれば楽だな」と思ったわけ。

 先に言っておくけどLGBTQという考え方が日本にも浸透してきて「そういう人を迫害するのはやめようキャンペーン」が世にはびこってますけど、その文脈で考えるのとはちょっと違う話です。その話をするには、また別の考えを巡らす時間が必要というか。

 皆さんご存知の通り一応音楽家の私は作詞をします。その時の一人称、「私」も「僕」もどっちも使います。曲によって違ったり、同じ曲の中にも共存していたり。読む人によっては2人の人物が登場してると思う詞でも、実は主人公は一人だったりする。これは私の自認が歌を通して男女の軸で揺れ動いていることの現れだなと思うんですね。

 だから「作詞のテクニックとして一人称を統一しなさい」とか、「女の子なんだから歌詞の一人称を私にしなさい」とか言われると「うっせえわ~」と思うわけです。私はどっちも使うのが一番しっくりくるんだよって。
 宇多田さんもどっちも使ってるんですよね。私の好きなミュージシャンである森田童子さんもどっちも使ってる。あと、浜崎あゆみさんとかもどっちも使うことで有名ですね。男性のミュージシャンも「僕(or俺)」と「私」を使う人、いるよね。

 言語についてまじめに考えたことある人は既に察していると思いますが、日本語は一人称に男女の違いがあるけど英語はないんですよね。“I”が一人称。
 言語の繊細度合いが英語と日本語では違うんだよね。日本語は、少なくとも一人称に関してはかなり繊細。

 さて、こと歌詞の話に限定した場合、一人称に性別があると受け取る側の性別も絞られがちになります。私はそこにやや不自由さを感じる。つまり、表現そのものには性別がないのに僕と歌うと男性性を帯び、私と歌えば女性性を帯びちゃう。本人にそのつもりがなくても。
 そもそも大枠の存在意義としては祈りである歌が、ターゲットを限定した世界観を持ってしまう。普遍性よりも限定された私小説っぽさが強まる。英語歌詞にはあまりそれがないので英詞のほうがより聴く人を選ばない祈りになりうる。
 これ、どっちが良い悪いではなくて、しょうがなく、ほとんどの表現が無意識のうちにそうなるって話ね。

 英語はあまり細かいところまで定義しない言語のような気がする。日本語は細かいところにまで名前を付けて定義していく感じ。まぁ、だからアメリカは自由の国で、日本は(なんちゃって)秩序の国なのかもなとか思ったり。

 時と場合によって作詞における一人称の性別が異なるようなタイプの表現者の人たちってノンバイナリー的な感覚を無意識に表現してる可能性あるなと思う。浜崎あゆみさんとかも数年前にLGBTQ系のイベントに出演してたよなとかいうことも思い出したり。(彼女のセクシャリティについては知らないけど)

 ノンバイナリーはトランスジェンダーと違って不確定な感じだから、社会的立場として主張するってことはあまりないけど、作品を通して何かを表現するときはそれって割と大事な違いになってくるよね。

 最近、自分自身の「喜怒哀楽」は自分から沸き起こる幻想なんだよなと考えたりしているでもあって。その一環で、「自分の精神には肉体とおなじように性別があり、さらにそのスペクトラムがある」というのも幻想の一種かもしれないとか思わないことはないんですけどね。
 どこまでを幻想だと思って感知しないことにするか。これは、地に足ついてるか否かに直結する感じもしていて、その考えで行けば私はどんどんいろんなことを幻想認定して不要と思うものを捨てていっているので地に足つかなくなっていってますね最近(笑)

 LGBTQとかノンバイナリーって、“当人の肉体の性別”と“自己の意識を表現するのに必要な肉体の性別”の差異の話じゃないですか。その差の持ち方に名前がいろいろついていてそれをセクシャリティと呼ぶっていう。

 これって“当人の肉体”と“その音を発するために必要な肉体”の差異を推察して「ヘッドかミドルかチェストか」を見極める感じと似てますよね。完璧な相関関係はないにしろ、ふわっとした関係性はありそうな気がしています。

 「祈り系ヘッドボイスとノンバイナリーな表現ってめっちゃ相性いいな」とか、「泥臭いチェストボイスとセックスとジェンダーの一致加減が加わるとかなりドロドロしたリアルを感じるな」とか。

 ボイス分類とセクシャリティの分類、全く異なる2つの次元の軸をレイヤーとしてみることでより多次元的に音楽が聞こえてくるなと思うんですよ。
 音楽…特に歌って、当然ながら、実はたくさんの細かい軸を重ねていて、めちゃくちゃ高次元な表現活動なんだよなと。
 次元が高い低いというと、レベルが高い低いのことだと思われそうですが、そうではなく。ただ、単純な歌一つとっても無意識にたくさんの次元のレイヤーを見せられてるんだよっていう発見をしたって話。

 音楽じゃなくても芸術活動ってのはそういうものとも言える。そしてそのレイヤーの重なり具合は日々の生活や誰かの歩んだ人生にも似ている。

 だから、“生きることは、芸術そのもの。”って思うんだよね。

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