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【適応障害休職中】母の看病でわかった自分のこと

5月、東京の叔父の一周忌の法事のために家族で東京へ。
それが終わり、帰ってきた後事件は起こった。

家族を陰から支えてくれる、母が入院してしまったのである。


母、体調不良。

事件は法事から帰ってきた翌週に起こった。

仕事に出かけていた母が、体調不良で帰ってきたのである。

玄関のドアが、いつもとは違う時間に開いたと思ったら、真っ青な顔をしている母が。


「具合悪くて病院行って帰ってきた〜。眩暈と吐き気で気持ち悪い…」


2ヶ月前にも同じように吐き気と眩暈で5日間くらい体調を崩した母。
今回は東京で法事で、母の実兄である叔父の一周忌。
日頃私のことで心配をかけているところに、さらに心労もあったであろう。
その後の体調不良。

「そっか〜。お父さんのご飯とかその他は私がやるから休んでおきなよ。
 大丈夫?」

そんな言葉をかけた気がする。
そこからまさかこんなことになるなんて。


母、意識朦朧になる

その夜から、看病を続けるが、嘔吐や眩暈でほぼ食事が入らず。
意識もなんだか朦朧としていて。
私の声が聞こえているのか、聞こえていて反応する気力がないのか分からず…


しばし様子を見てみたけど、自分では不安で看護師の妹に電話で相談してみることに。
初日から様子を共有していたから、夜勤明けのタイミングで帰ってきてくれることになった。
自分としては心強い。
これが体調不良を母が言いだしてから三日目の夜。


様子をみた妹が、母の様子を見るなり顔が曇る。
意識が朦朧としていて、食事も入らず、1日のほとんどを眠っている状態。
なんだかおかしいということになって、看護師の妹だからこそ何かを感じたのか、不安になって泣いてしまう。


たしかに、もう私たちの親もいい歳で、若くはないし、世間でいう高齢者だ。
そんな親だからこそ、回復にも時間がかかるし、悪化するのもあっという間。


そこで下した判断は、
「明日朝イチでかかりつけの病院にいこう」
ということだった。


そして次の日。

次の日の朝、やっぱり様子がおかしい。
もし脳とかだったら一大事だし、自分でベッドから降りて車への移動をする体力すらない母。


そこで初めて、
「救急車を呼ぼう」
そうなった。


そこからだ。
私の本当の戦いが始まったのは。


母が入院したことで、私が家のすべての家事をやることになった。
自分も体調が万全ではない中で、自分以外の人にも影響があることをこなす日々。


母が父にやっているように。
できるだけ父を不快にしないように。

洗濯や料理などの家事を、母がやっているようにできるだけやろうと頑張った。


父が仕事から帰ってきたらすぐにお茶を出し、
父がお風呂から上がったタイミングで夜ご飯が出来上がって並んでいるように。


自分で自分を苦しめていた。
頑張らないと。
一生懸命やらないと。
母みたいに「完璧」に。


そう思いつつ、なんとかしのいで、ついに母が退院になった。
一番は毎日の「誰かのために作るご飯」がプレッシャーになっていたから、その相談をできる母が戻ってきてくれることに、安心した。
作業はできなくても、アドバイスしてくれる人がいるってことが心を少し軽くした。



そこでだ。
ついに気がついた。



「え?いままで完璧にやろうとしてきたけど、そんな気負いすぎなくてよかったんじゃない?」と。


完璧にやろうとしていた自分に気がついた

父だって私の状態はある程度わかってくれてるし、私まで倒れたら退院直後の母のフォローはできなくなる。


そうなった時が一番最悪のシナリオだから、適度に力を抜いていいんじゃない?って。


振り返ってみれば、今まで仕事している中でも、
「完璧にやること」に重きを置き過ぎていたように感じる。


いい意味で私の代わりは誰でもいるし、
仕事だったら(私の場合は)適度に手を抜いたとしても、誰も死なないし、生き返らないし、悪は栄えないし、世界は滅びない。


そう思ったら、自分のペースで自分がやれるだけのことを、やれるだけするっていうのが一番いいんだと思い知った。


自分に与えられた体と、脳と、心でできるところまで。
自分を大事にしつつ、できるところまで。
この自分を大事にしつつっていうのが結構おざなりになっちゃう節があるから、これからの人生気をつけていこっと!
そう思う。


そうして私の母の看病は続いているわけだけど、それをきっかけに自分のことを知れたので、とてもよかったと思う。



そしてこれを読んでいるみなさんにもお伝えしたい。
自分を犠牲にしないで大事にしつつ、できる範囲で、できることをやればいいんだよ。と。



P.S
母は順調に回復して生きています!!やったね!

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