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多様性観点が足りない表現に感じるモヤモヤ

少し前、とある会社のPR動画を見た。そこに登場していたのは見事に男性のみで、「この会社では男性しか評価されず、女性が評価されるには男性の何倍も成果を出すことが求められるんだろうな」という感想を抱いた。おそらく制作側にそのような意図はまったくなかったのだろうとは思う。しかしその観点が欠落しているということ自体に、私はモヤモヤを感じた。

一方、春頃に乗ったデルタ航空国際線の機内ビデオでは、最後に登場したパイロットがアフリカ系の女性だった。「敢えて起用しました」感がありありと伝わってきたが、私は非常に好印象を持った。たとえそれが露骨すぎるものだとしても、「デルタ航空はジェンダーおよび人種の平等に取り組んでいますよ」というメッセージが強烈に伝わってきたからだ。

日本でも最近は洗剤のCMに男性が起用されるようにはなってきたが、未だ「ジェンダーの平等」観点が欠落していると思われる表現や企画はそこら中に散見される。たとえば先日の参院選の際、『週刊朝日』には『参院選女性候補をファッションチェック! 「庶民派」が鍵?』という記事が掲載された。男性候補のファッションチェック特集はなかったようだが、主要読者の興味が「女性候補者の見た目」だったのであれば、マーケティング的にこの記事は間違いではない。また、今年日本でも公開され話題になった、アメリカの最高裁判事の女性を描いた映画『RBG 最強の85歳』に添えられた日本語キャッチコピーは『妻として、母として、そして働く女性としてー』だった。ちなみにアメリカ版公式ウェブサイトにはこのようなコピーはない。「妻」や「母」であることを真っ先に強調するこの日本版コピーは物議を醸したが、日本のオーディエンスが共感し「この映画を見に行きたい」を思うのであれば、これもマーケティングメッセージとしては正解なのだろう。

日本の社会全体で「ジェンダーに関するステレオタイプ」が強いため、それに合わせたメッセージ発信がなされ、それによりステレオタイプが解消しないという悪循環。もちろん日本でも企業の広告が炎上することもあるが、それは余程の場合だ。

ちなみにイギリスでは今年の6月から、広告においてジェンダーステレオタイプを助長するような「有害」表現が禁止となった。ここで「有害」とされている表現は、「運転や駐車が下手な女性」や「掃除をする妻の横で寝転んでいる夫」などの描写が含まれる。日本だとおそらく多くの人が気にしないレベルの表現だろう。これがジェンダーギャップランキング15位と110位の差なのかもしれない。

最近は体型の多様性についても認識が進んできたが、日本社会ではまだまだ無頓着だと感じることが多い。日本でプラスサイズモデルを大きく表示している一般向けアパレルブランドはあまり見かけないが、アメリカではGAPなどがプラスサイズモデルを大きく起用してずいぶん経つし、今年になってNIKEではニューヨークやロンドンの旗艦店でプラスサイズマネキンを使い始めた。下の写真は私が今年5月にニューヨーク5番街のNIKEで見たプラスサイズマネキンだ。

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また、セレブリティによる発信も大きい。クロエ・カーダシアンのブランドGOOD AMERICANのウェブサイト上ではサイズ0、8、16の3種類のモデルが用意され、カスタマーが自身の体型に一番近いモデル着用写真で商品を閲覧できるようにしているし、リアーナは自身のブランドFENTYのポップアップストアでカービーなだけでなく凸凹のある現実的な体型のマネキンに服を着せ、多くの女性の支持を得た。

もちろん、日本ではアメリカに比べて細身の体型の人が多いというのも、プラスサイズモデルやマネキンが浸透しない理由の1つだろう。メインカスタマーの体型や好みに合わせてモデルやマネキンを展開するというのもマーケティング的に正解だとも思う。でも、上で取り上げたアメリカのブランドから感じられるのは、「モノを売る」以前の、ブランドとしての明確な姿勢だ。先ほど挙げたデルタ航空もそうだ。

振り返って日本の企業はどうか。体型の多様性に対してオープンな姿勢を打ち出すアパレル企業はどれだけあるだろうか。アメリカのように、普段の生活のなかで目に入るレベルでそれらを見ることは、残念ながらほとんどない。それはきっと、カスタマーである日本に生きる私たちの、「容姿の美しさ」に関する多様性に対する感度が低いせいもあるのだろう。

今回取り上げたのはジェンダーと体型の多様性についてだが、それ以外にも肌の色やエスニシティ、宗教などあらゆることの多様性をもはや排除できない時代になっている。また、「手に入れる=豊かになる」時代が終わった今、企業にはモノを売る以前に社会的存在価値が大きく問われ始めてもいる。このことはアメリカのスタートアップの多くが環境や労働のサステナビリティを重視したり社会問題に取り組む姿勢を大きく打ち出したりすることで支持を得ていることからもわかるだろう。「これまではよかった」ことがもはや今後も正解だという根拠にはならない。私たちは時代に合わせて認識を意識的にアップデートしていかなければならないのだ。

日頃こういうことに敏感な私でも、自身の認識をアップデートする必要があると感じた出来事がある。去年仕事でロサンゼルスのホテルを訪れ、そこで活用されているロボットについてゼネラルマネージャーにインタビューした際、私はうっかりそのロボットを指して「彼」と言ってしまったのだ。そのゼネラルマネージャーは「あれ?いつの間にジェンダーが決まったの?」と聞き返し、その場は笑って済んだのだが、のちにこれが私の中にあった「ロボット=男性的」とするアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)の表れだと気付いた。

自分がマジョリティ側にいたり、その問題から遠いところにいたりすると、それが誰かを貶めたり傷つけたりする可能性があることになかなか気づくことができない。だからたとえば「人種問題には熱心だけど女性蔑視発言をする」などの「自分の痛みには敏感だけど他人の痛みには気づかない」ということが常に発生しうる。痛みを受けるほうも、大したことではないからと慣れてただやり過ごし続けたり、誰かを息苦しくする表現に少しの違和感を持ちながらそれを見過ごし続けたりする。それがいつしか「そういうもの」として、誤った常識として定着することもある。

しかし、その「無頓着」と「やり過ごし」の積み重ねが、特定のグループにとってのみ居心地のよい価値観を広げ、目に見えない決めつけや社会的圧力を増大させ、結果的に自分自身や子供たちの選択肢を狭め、ひいては生きづらさを生み出すことに繋がる。未来に対する責任として、私はやっぱりやり過ごせない。微力ながらもこういうモヤモヤや気づきをできるだけ発信していくのが、「物を書く」仕事をしている者としてできることだと今は考えている。

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