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そうだ サンフランシスコ、行こう

それまで流されてうまくいってた人生がまったくうまくいかなくなり、私はかつてない程落ち込んだ。一方で気が付いた。積み上げてきたものがないならどこで再スタートを切ってもいい。半分自棄になった私が考えたのはアメリカに行くことだった。

もともと新卒で就職活動を始める前に、アメリカの大学院に行こうか悩んでいたことがある。結局その時も流されて就活し、流されてベネッセに入社したのだが、後悔する必要のない過去まで見境なく後悔し「流される」ことに対して完全否定モードだった私は「流される前の意志」を尊重しようと思ったのだ。そしてそれは、大学生の頃まで遡った。

でも今は勉強よりもお金を稼いで社会的承認欲求を満たしたい。じゃあやりたいことは?と考えたときに浮かぶのはやはりあのゼクシィ時代。アメリカで働いたことはないし、英語は書けるがもう話せない。ビザもどうなっているのかわからない。でもチャレンジするならゼロスタートの今しかない。インターンなら、いけるかもしれない。アメリカで、マーケティングの仕事をしたい。

突如そのような結論に至った私は翌日、職場である研究室で「サンフランシスコ インターン」と検索した。検索結果のトップに表示されたのは、後に私が働くことになる会社、btraxでインターンをした人の体験記だった。

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その2か月前の2016年4月、私はサンフランシスコ郊外に移住した友人を訪ねていた。結婚を機にアメリカに渡りシリコンバレーで働き始めた彼女は、かつてアメリカの大学で共に交換留学生として過ごした同じ大学の先輩だった。

私は大学でアメリカ文化論を専攻していた。アメリカのことを勉強したいと思ったのはその社会における多様性ゆえである。様々な民族や文化が集まって軋轢を起こしながらも成長していく大きな国に、日本でマイノリティとして育った私は子供の頃から強く惹かれていた。

留学に行くことになったのはもちろん流されてのことだ。交換留学生の募集は知っていたが、それは私以外の優秀な人が行くものだと思っていた。一次募集が締め切られ、追加募集がかかった頃、ゼミの教授が私に「あなた行ってきなさいよ」と言い始めた。

「えっアメリカの大学の授業なんかついていけませんよ」と答える私にその教授はこう言った。「単位のことなんか考えなくていいからとにかくアメリカで1年暮らしなさい。ただ暮らすだけでいいから」。

ならばと大急ぎでTOEFLを受けたが、結果は交換留学の選抜面接には間に合わず、面接担当教官には「TOEFLの結果もないのに何を以てあなたを判断すればいいの」と怒られた。ああやっぱりこんな急ごしらえでは無理なんだなと思ったが、数日後、掲示板に貼りだされた合格者の中に私の名前があった。

急にアメリカに留学することが決まり、同じ大学から留学する先輩と初めて会うことになった。阪急六甲駅近くのモスバーガーに現れた彼女は美人で頭もよく、圧倒されたのをよく覚えている。

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留学中に住んでいたユタ州北部の大学街は保守的な地域で、サンフランシスコに比べると文化の多様性は乏しかった。それでも日本よりずっと多様で、マイノリティの割合が日本よりも多いという環境は、私にとって水が合った。時期はちょうどニューヨーク同時多発テロの翌年、2002年~2003年のことだったが、映画監督であるスパイク・リー氏の反戦講演会があったり、LGBTQの学生のためのカミングアウトデーがあったりと、今の日本から考えても多様な取り組みをしていたように思う。

この時期のことは今でも人生の宝物だ。10か月間しか住んでいなかったのに、すべての体験が強烈で、今でもものすごく長い時間を過ごしたような気がしている。当時はFacebookやYoutubeもなかったため、日本の情報からは隔絶された時間だった。帰国後に「りそな銀行」ができているのを見て「なんだあれは?」と思ったのを今でも覚えている。

特に印象に残っているのは、コリアン・アメリカンの人にエスニシティに関するアイデンティティについてのインタビューをしたことだ。彼は幼少期に韓国からアメリカに移民したのだが、インタビューで”I’m definitely American”と語り、私に衝撃を与えた。日本で生まれ育ち、韓国語を話せないにもかかわらず、私は”definitely Korean”である。生まれた場所やエスニシティにかかわらず、育った国に属しているという感覚を持てることが、羨ましかった。もっと長くアメリカに住んでみたいと思った。

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そんな宝物の時期を一緒に過ごした彼女が結婚を機にアメリカに戻り、新たなキャリアをスタートさせた。日本でペーパードライバーだった彼女は今や毎日片道2時間運転して通勤している。自身の友人がいない環境ながら、夫の親戚や友人たちと付き合い、新たな人生を切り拓いていた。相変わらず友人のいない仙台で腐り始めていた私には刺激的だった。

だからなのか、アメリカでマーケティングの仕事をしたいと思ったとき、行くべき場所はサンフランシスコだと思えた。ここはお得意の勘だ。こうして私は結局流されながら、サンフランシスコでのインターンを探し始めた。(つづく)

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