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貯めたお金は誰のもの

ここにある貯金箱は誰のかな
結構貯まってるから山分けしようよ
名前が書いてないならいいんじゃない
いやそれママのだったらまずいって
それだけ貯まってりゃ誰だって黙ってないよ
#ジブリで学ぶ自治体財政
 
徳島県阿南市で昨年11月に現職を破って当選した新市長が公約として掲げていた全世帯への10万円給付が実現する見込みです。

 
報道によれば、全世帯への10万円給付に加え、18歳未満の子どもには追加で3万円を給付し、その財源には財政調整基金の昨年度末時点の残高のおよそ4分の1にあたる、27億円あまりを取り崩したうえで、一般財源として25億円あまりを支出するほか、物価高騰対策の国の交付金およそ9億5千万円があてられます。
議会では「物価高騰の負担感や不安感をできるだけ早く払拭し、市民の暮らしを守るため、財政調整基金をその礎とするのは当然だ」と賛成する意見の一方、「南海トラフ巨大地震に備えるためには基金はいくらあっても足りない。能登半島地震を見てなお、財政調整基金を使っていいと判断できる感覚は間違っている」と反対する意見も出されました。
そのうえで採決が行われ、事業費を縮小する修正案が反対多数で否決されたうえで、補正予算案は原案どおり、賛成15、反対9で可決されました。
皆さんはこの阿南市の取り組みについてどうお感じでしょうか。
 
市民への現金給付については、近年、コロナ対策等でこのような公約を掲げて当選した首長もおられましたが、その際、いろんなことを書きました。
そもそも全員給付という悪手については金額に見合った成果が期待できず検証もできないのに市民、政治家から支持されやすく見直しにくいことから私は否定的な意見を持っています。

しかしながら、金額に見合った成果が期待できるというロジックモデルが存在し、その効果が検証できるものであれば、現金を給付する施策をすべて「バラマキ」と切って捨てることはできません。
そういう意味では阿南市のこの10万円給付が砂漠に水を撒く単なるバラマキでなく、物価高に疲弊する地域経済の浮揚に資するだけの効果が得られるかどうか、しっかりと見守りたいと思いますし、そのためにできれば、この施策の経済効果について阿南市からの公表ないし第三者の分析評価が行われればいいなと思います。

 また、悲しいことに阿南市で起こっていることは市民が選挙で選んだ市長が掲げた公約の実現であり、民主主義の手続きとして問題はありません。
もし問題があるとすれば、このような政治家の我田引水が横行すること。
政治家が自らの当選のために市民の血税を湯水のように使っていいのかという点です。
これはそもそも行政施策がなんらかの社会課題を解決するための投資であることや、自治体財政の収支構造、予算編成・執行といった財政運営の基本的な仕組みについての正しい理解が市民に備わってないまま首長や議員が選ばれ、行政を読み解く力に欠けた政治家たちが判断を行っていることに問題があります。
この問題を解決するには市民の行政運営リテラシー向上が必要ですが、それを担うのは私たち「中の人」ではないかという問題提起を、私からこれまで何度もしているところです。

では、今回の阿南市の事案で注目すべき一番のポイントはどこでしょうか。
それは財政調整基金の取り崩しです。
地方自治法が定める「会計年度独立の原則」に立ち返って考えてみましょう。
地方自治法第208条第2項には「各会計年度における歳出は、その年度の歳入をもつてこれに充てなければならない。」とあります。
いくつかの例外はありますが,原則としてある年度に必要な支出の財源は,同じ年度内の収入で賄うことになっています。
そして今回取り崩して10万円給付の財源となる財政調整基金は,毎年度の収入と支出の差額である「決算剰余金」を積み立てたもので,将来,何らかの財政需要が発生したときに取り崩し,その年度の収入として使うことができる,年度間の財源調整の役割を果たすものです。
特に使途を明示することなく積み立てるため,あらかじめいつまでにいくら貯めておかなければいけないという性格のものではありませんし、その取り崩しの目的や金額に特に決まりはありません。

財政調整基金の趣旨からいえば、今回、物価高から市民の暮らしを守るために過去の剰余金を積み立てた基金を取り崩して市民への給付に充てることは問題がないとも言えます。
しかしながら、会計年度独立の原則とはそもそも何者なのでしょうか。
この原則は、憲法第83条から第86条に定める「財政民主主義」の思想を具現化したものだと私は捉えています。
財政民主主義とは、国家が財政活動(支出や課税)を行う際は、国民の代表で構成される国会での議決が必要であるという考え方で、これに基づいて、国及び地方自治体は単年度予算主義を採用し、年度ごとに国民、市民から徴収する税金の額とその使途を国民、市民の代表に問いかけ、賛同を得ているのです。
債務負担行為や繰越など、年度を超えて支出することをあらかじめ決定することが会計年度独立の原則の例外として規定されているのは、これが将来の国民、市民の持つ予算編成権に対する越権、侵害行為となるからであり、将来にわたって負債を負う「借金」の使途が限定的なこともこの考えに基づいています。
 
財政調整基金は過去の市民が将来の市民にその使途を信託した資産ですが、その信託は何に使ってもよいという白紙委任でしょうか。
また、現在の市民でその資産を取り崩し、将来の市民には遺さないというのは将来の市民がその資産を取り崩して使う権限を奪うことになりますが、その承諾は将来の市民から得られるのでしょうか。
財政調整基金は予算を上回る収入や予算を下回る支出の結果自動的に生じる決算剰余金が主たる財源であり、その積立そのものについては機械的に行われ、自治体の明確な意思を持ちません。
そのような出自である以上、一時的な収入減少や支出増加をならして年度間の財源調整を機械的に行うための余裕資金でしかないと見るのが本筋であり、今回の阿南市のように何らかの政策的な意図をもって大きな金額を取り崩す場合には過去及び将来の市民から理解が得られるかという観点でのチェックが行われるべきものだと私は思います。
 
なぜなら、基金の財源となった過去の剰余金が当該年度に使われていたなら享受できた過去の市民の利益、あるいは基金を温存し将来に取り崩すことで享受できる将来の市民の利益をいずれも受け取らせず、現在の市民だけが彼らに代わってその利益を受け取ることになるからです。
これは、年度ごとに市民から徴収する税金の額とその使途を市民の代表に問いかけ、賛同を得る財政民主主義の観点から見れば明らかな例外行為であり、年度間の財源調整のような過去から現在、未来にわたる市民がそれぞれ「お互い様」と許容できる年度間の財源融通とはわけが違うのではないか、というのが今回の阿南市の件について私が抱く違和感の正体なのです。
本来、私たちには、現在の自分たちへの行政サービスのために過去の資産を食いつぶす権利も、将来の市民が収める税金を先食いする権利もありません。
私たちは原則として、現在の自分たちが収める税金の範囲でしか行政サービスを受けることができない、それが「財政民主主義」に基づく「会計年度独立の原則」だと思うのですが、皆さん、いかがお感じでしょうか。

 
★2018年12月『自治体の“台所”事情“財政が厳しい”ってどういうこと?』という本を書きました。
https://shop.gyosei.jp/products/detail/9885
 
★2021年6月『「対話」で変える公務員の仕事~自治体職員の「対話力」が未来を拓く』という本を書きました。
https://www.koshokuken.co.jp/publication/practical/20210330-567/
 
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