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気仙沼を訪ねて

東日本大震災以後、復興は様々な形で進められてきた。
震災から13年。気仙沼を訪ねた一個人の見た“景色”を記す。


その時何が起きていたか

2011年3月11日14時46分頃に発生した、東日本大震災
国内観測史上最大マグニチュード9.0。最大震度は、宮城県栗原市で震度7 。震度6強は宮城県、福島県、茨城県、栃木県の4県37市町村で観測された。

筆者は、大学卒業間近。新生活に向けての買い物で、都内デパートの地下にいた。
とにかく揺れた。いわゆる、“地震酔い”のような状況だった。
ただ事ではないということで、近くの家電量販店のテレビコーナーへ。
そこで映し出されていたのは、お台場をはじめとした都内ビル群からの黒煙(火災)だった。

まずは家に帰ろうとしたが、約10分足らずの乗車時間の電車は運転見合わせ。
タクシーをかろうじて拾い、2時間近くかけ帰宅。
家の中は、食器類が散乱したものの大きな被害はなく、その後、近くに住んでいた祖母の家で、夕刻になるにつれ深刻化する被災状況をテレビで見ていた。

以下、内閣府HPにまとめられているが、数値以上に深刻な被害がもたらされたことは、多くの方が記憶されているのではないだろうか。

未曾有の 大津波
今回の大震災では、岩手、宮城、福島県を中心とした太平洋沿岸部を巨大な津波が襲いました。
  各地を襲った津波の高さは、福島県相馬では9.3m 以上、岩手県宮古で8.5m 以上、大船渡で8.0m以上、宮城県石巻市鮎川で7.6m以上などが観測(気象庁検潮所)されたほか、宮城県女川漁港で14.8mの津波痕跡も確認(港湾空港技術研究所)されています。また、遡上高(陸地の斜面を駆け上がった津波の高さ)では、全国津波合同調査グループによると、国内観測史上最大となる40.5mが観測されました。
  国土地理院によると、青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉の6県62市町村における浸水範囲面積の合計は561km2。これは、山手線の内側の面積の約9倍にあたります。また、同院が公開した浸水範囲概況図から、今回の津波が、仙台平野等では海岸線から約5km内陸まで浸水していることが確認できます。

内閣府防災HP「特集 東日本大震災」

都内各地では、帰宅困難、計画停電、液状化現象…、未曾有の事態が東日本を襲った。
筆者の卒業式は、式典は開催されず、集会のみだった。

そして、この間には、福島原発事故(1F事故)も発生した。
当時、原発(原子力)政策について、微塵も知らず、事故でどのような懸念がされたかも、ここ2年前くらいまではわからなかった。
無知ほど怖いものはないが、事故後の課題が山積していることは言うまでもない。
処理水、燃料デブリの取り出し、除去土壌という廃炉に向けたあらゆる作業…etc
本稿では割愛するが、震災によってもたらされた被害は13年経過しても残っている。

東京電力HP「福島第一原子力発電所1~3号機の事故の経過の概要」

震災時の形跡

気仙沼では、約20から10メートルの津波が襲来したという。
津波は、船や工場のタンクなどを上流に押し上げるのほどの強さ。
そして、住宅地などは火災が起こり、2次的な被害も深刻であった。Youtubeなどにもそうした記録が残っている。

気仙沼市HPには、被害の状況が掲載されているので、以下ご参照いただきたいが、気仙沼市まち・ひと・しごと交流プラザPIER7が建設されるなど復興の歩みが町のあらゆる箇所で見れた。

被害の状況(令和5年8月31日現在)人的被害(被災地ベース)
1,434人(内訳:直接死1,109人、関連死111人、行方不明者214人)
人的被害(住民登録ベース)
1,356人(内訳:直接死1,033人、関連死111人、行方不明者212人)
注:被災地ベースとは、宮城県発表の「東日本大震災における被害等状況」による、本市域で発見された死者等の人数
注:住民登録ベースとは、被災地ベースの人数から本市に住民登録を有していない方78人を差し引いた人数
注:人的被害については、令和5年9月1日時点以降変更ありません
住宅被災棟数: 15,815棟(平成26年3月31日時点)
被災世帯数: 9,500世帯(平成23年4月27日時点・推計)

気仙沼市HP

では、現地は今どうなっているか。
東京駅から約4時間、新幹線と在来線を乗り継いで向かった。

気仙沼に到着し、はじめに向かったのは、気仙沼「海の市」。
夕方ということもあり、お客さんはまばらだが、新鮮な魚介類中心に販売されていた。
平成26年に全面再開したが、今でも、駐車場から、当時の津波到達の“記録”を確認できる。
この高さの津波が、とてつもないスピードで来たということだ。

建物2階部分あたりまで津波が押し寄せた
自販機をゆうに超える
大島へ向かう途中、気仙沼港を眺める

対岸の大島から望む

気仙沼市街地から海を隔ててわずかな距離に、大島がある。
「緑の真珠」とも称され、自然豊かで、NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」の舞台となった場所だ。

夕焼けの時間帯に重なり、非常に鮮やかな空を眺めることができたが、「震災時には津波が海抜20メートル近くまで駆け上り、一時南北に分断。市によると、760棟が損壊し、33人が犠牲になった。」という。

災害における避難経路の確保は、元旦の能登半島地震でも明らかになっているが、私たちが日頃から防災について考えることも、また国・自治体も最大限の対策努力をすべきことは間違いない。

気仙沼大島大橋
奥に見えるのが、気仙沼港方面

復興を祈念し、遺構を歩く

翌日、気仙沼市復興祈念公園を訪れた。
2021年3月11日に開園し、犠牲者銘板などが設置されている。
「追悼・伝承・再生」をコンセプトにした、「復興を祈念する場」だという。
あの時と、今見える景色の違いは何か。
当時、犠牲になった方々の想いに手を合わせた。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館

震災の記憶と教訓を伝え、警鐘を鳴らし続ける「目に見える証」
東日本大震災遺構・伝承館へ。

ここは、震災遺構として地震と津波の爪痕が当時のまま残されており、当時の「宮城県気仙沼向洋高等学校旧校舎」そのものが、見学できる。
校舎の4階までが水没したという。それだけの津波が押し寄せた。
(同校は現在移転され、2キロ弱内陸の距離にある。)

入館して最初に、シアター(13分間の記録映像)を見る。ここは撮影禁止だが、旧校舎は、基本的に可能だ。
津波の威力、地震の強さ…人間は自然災害の前では無力であることを身にしみて考えさせられた。

☆ダイジェストはこちらから↓

幸い、当時は170名ほどの生徒が学校にいたが、全員無事だったという。ぜひ一度、読者の方もご自身の目で見に行っていただきたい。

破壊されたトイレ
1階部分
同じく1階保健室。
3階には、車が流されてきた。
運ばれた車の後ろのは、ロッカー類が押しつぶされている
壁や扉には、津波の影響と思われる汚れ
4階。パソコンが時代を感じさせられる。
冷凍工場の激突跡。4階の高さは約12メートル。
現在は、ゴルフ場(気仙沼市パークゴルフ場)が整備されている。元々は、高校のグラウンドだった。
1階、学校受付と思われる
外から見る、激突後
折れ曲がったフェンス
押しつぶされた車
津波にのまれても生きる植樹

龍の松は何を示すか

伝承館から、5分ほどの距離にある「岩井崎龍の松」に最後立ち寄った。
三陸復興国立公園でもあるが、「龍の松」(表紙写真)は元々あったものではない。
『東日本大震災の津波によって幹や枝などが被害を受けたものの、一部が奇跡的に残ったことで姿を現したもの。高さ約2.5m、幹周り約1.7mで、大きく曲がった幹と折れた枝が、まるで龍が昇る姿に見えることから「龍の松」と名付けられた。その後大震災から時が経ち、傷みが激しく一時は枯死状態となりましたが、復興のシンボルとして長く保存する為の処理が施された。』

また、潮吹き岩も有名だ。こちらは震災前からあるものだが、いずれも太平洋を背景に素敵な景観だ。
とはいえ、この海が、震災時に大津波を引き起こした。

地震発生を予知することは容易ではない。
だが、その被害を減らすことはできる。
復興途上の街並みを見た一方、政府の政策はどこをみているのだろうか。

自然と共存するためにどうしたらいいか。
もし、気仙沼付近にも原発があったらどうなっていたか。
もし、1F事故がより深刻化していたら、復興はどうなっていたか。
様々な“教訓”を生かすべきということを同地を訪れ再認識した。
多岐に渡る復興がより進むよう祈念して。

潮吹き岩

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